<   2010年 04月 ( 2 )   > この月の画像一覧

 ぎっくり腰もようやく治ってきた。まだ違和感はあるが、何とか日常生活を気にならずに送れるようになった。かかりつけの鍼の先生の治療のおかげである。
 その鍼灸院にはもう一人先生がいたのだが、先月お辞めになったという。ここ2年、私が苦しい時期を助けてくださった方である。本当に支えられた。先生の独自の癒し能力はどなたにも代え難いものがあったので、残念だけど、そんな時期だったかも、とも思う。
 お世話になりました。本当にありがとうございました。そしてこれからの活躍もお祈りしております。
[PR]
by hoshinotjp | 2010-04-30 23:03 | 身辺雑記
 カナダ・マギル大学で日本文学を勉強している学生から、twitterで次のような質問を受けました。

 星野さん、十年前のインタビューでは「でも現在の言葉では信用が崩壊寸前で、言葉以外の伝達の方法へと退行しようとし ている」と述べましたが、インターネット時代でも未だにそう思いますか?

 併せて「現代世界に於いてのコミュニケーション危機や最後の吐息の意味について」も尋ねてきたので、ツイッター状では字数が少ないため、こちらで答えたいと思います。

 まず、インターネット時代の現在でも、「コミュニケーションが言葉以外の伝達方法へと退行しようとしている」と思っています。例えば、ツイッターでは、140字に限られます。たくさん書きたければ、連投すればいいわけですが、140事前後の塊としてぶつ切りになります。すると、短ければ短いほどよいわけなので、自分の言いたいことを、できるだけ簡潔にコピー化しようという気持ちが働きます。できるだけ、ワンフレーズで、という意識が強くなります。さもないと、読み手の注意を引き、理解してもらうチャンスが減るからです。
 インターネット上でそれを促すのが、コピー&ペーストの文化です。ツイッターでは、それがもっと手軽なRe-tweet(RT)へと進化しました。誰かの書き込みを読み、お、これはいいと感じたら、とりあえずRTする。
 読み手の頭に簡単にインプットされて記憶されるために、できるだけ短い文章で書こう、という傾向と、その短い文章をどんどんコピーし、RTであちこちへ広げていく、という傾向。この二つの傾向が重なると、言葉は、文章を作っていくというよりも、記号化していきます。アイコンとか絵文字と、似たような表現に近づいていきます。
 私の考えでは、言葉による表現というのは、言葉で表せない気分や感情をも、言葉で伝えることです。だから、単にその言葉の意味だけでなく、言外にたくさんの意味を含んでいます。その意味を伝えるために、「文脈」、コンテクストが必要になります。つまり、文章を読むとは、文脈、言葉の流れを読むことです。言葉の流れの中に、言葉では表しきれない意味がたっぷりと溶けているのです。
 これは、「空気を読む」こととどう違うのでしょうか?
 じつはあまり変わりません。私は、空気を読むこと自体が悪いとは思っていません。それは文脈を読む能力であり、コミュニケーションのために必要不可欠な作業です。ただ、それが「空気を読め」という強制になると、おかしなことになる。いつどんな空気を読み、どう振る舞うかは、その人の自由です。まったく読まなければ、他人とコミュニケーションが難しくなるだけです。でも、常に空気を読んでその流れに従え、というのでは、これまたコミュニケーションではなくなります。ただの命令です。
 大きな川の中にも、流れの速いところ、遅いところ、水の冷たいところ、温かいところがあり、それらははっきりと分かれているわけでなく、お互い混じり合いながらそれぞれの流れを作っているように、私たち人間も、社会の中で混じり合いながら、それぞれの流れを作っています。その流れを混じり合わせる作業が、文脈を読み合い、言葉でやりとりし合うコミュニケーションだと思います。そこでは、それぞれの立場(流れ)が尊重されています。
 言葉が記号化していくと、その流れに含まれる微妙なものがすべてカットされます。あの流れは速い、とそのひと言で決めつけられ、速さの微妙なさや温度や色は顧みられなくなります。その場で単純化したレッテルを貼るようなものです。それが必要な場合も多々ありますが、記号化が強まっていく社会の中では、このその場だけの単純化とレッテル貼りが、次第に標準となりつつあるように私は感じています。こうなると、自分の感情や意志を文章で表現しても、細かいことは切り捨てられてしまいます。残るコミュニケーションは二つ。先ほどのような、マジョリティの命令に従うことで「同じ」一員になるか、最初から共通した気分を持っている者同士で排他的な集まりを作り、お互いに詳しく話さないでもわかるわかると共感し合うか、どちらかになってしまいます。いずれにしても、違う立場の者同士、外部の者同士の意思疎通は、消えてしまいます。それが消えれば、違う者、外部の者は、常に「得体の知れない敵」として認識されるしかありません。
「最後の吐息」は、文脈を読み合うことでどこまでコミュニケーションができるのか、その可能性と限界を追及した作品です。言葉で伝えるには限界がある。でも人間は言葉で伝えるしかないのです。(もちろん、歌や踊りやその他の方法も最大限駆使しつつ)。13年前に書いた作品なので、現代における私のコミュニケーションの絶望については、あのころと比較にならないほど深いです。

 だいぶ長くなりました。読むのが大変だと思いますが、君の能力なら問題なく読解できるでしょう。また疑問があれば、気軽にどうぞ。
[PR]
by hoshinotjp | 2010-04-25 10:53 | 文学