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 ※この試みはすでに終了しました。
 昨年の秋から考え続けていた、「ツイッター小説」を思いきって始めてみることにしました。http://twitter.com/orex2 で展開中です。
 私も書きますが、読んでいる皆さんにも書いてもらう、というのが、その核心です。
 まずは私がツイッター上で導火線となる小説を書き始めます。私の新著『俺俺』の外伝という形をとっていますが、『俺俺』を読んでいなくても、わかる独立した小説です。(ちなみに、『俺俺』の冒頭5ページはこんな感じです。サイト内の「立ち読み」をクリックしてください)。
 皆さんには、適当なところで乱入して、小説を枝分かれさせていただきたいのです。つまり、私の文章の合間から、それぞれ小説を書いてみてほしいのです。
 枝分かれのさせ方は、思いつく限り、どんなやり方でも構いません。
 例えば、
・ちらっと出てきた通行人に焦点を当てて、その人の物語を書き始める。
・私が書いている主人公の、眠っている最中に見ている夢の内容を書く。
・まったく新たな登場人物を作って、私の書いている主人公を脇役とする。
・私の書いている話がいつの間にかパラレルワールドに入ってしまった作品を書く。
・私の書いているツイッター小説を読んでいる人物の物語を書く。
 などと、好き勝手でいいのです。
 これは遊びです。ですから、気楽に試してみてください。誰もケチはつけません。レベルがどうのと、気にする必要もありません。書いたことがあるかどうかの経験も関係ありません。面白そうだなと感じたり、読んでいるうちに思いついたり、空想が広がっていたり、時間つぶしに新種の遊びをしてみようかと思ったりしたら、とりあえず書いてみてください。
 私の希望としては、プロの小説家だろうがそうでなかろうが構わず入り乱れ、枝分かれした話からさらに枝分かれして、もう全体像が誰にもわからないぐらいに膨れあがれば楽しいな、と。
 とりあえず、最低限読めるように、ルールというか、仕様を考えました。参加の仕方は以下の通り。

1、まず、枝分かれさせる部分を、リツイート(RT)する。
2、続けて、自分の小説を展開する。1ツイートだけでもいいし、長く展開してもいい。
2、できれば、冒頭に続き番号を振る。
3、末尾に必ずハッシュタグ 「#orex2」をつける。「#」の前の半角空きを忘れないように。このタグを忘れると、この企画の一部としては読めなくなります。
 以下、私が自分の小説を枝分かれさせてみた例です。
c0104199_15134211.jpg


 参加者まで含めて全体を読むには、「#orex2」で検索してみてください(なお、ツイッターの不具合で、肝心の私の冒頭の書き出しが、ハッシュタグ検索では表示されません)。
 私も折に触れ、皆さんのツイート小説を読みます。そして場合によっては、枝分かれさせます。
 ともかく多くの方が参加してくれないと、成り立ちません。皆さんの関心が頼りです。ぜひ、アホな遊びにつきあってやるかという気持ちで、やっちゃってみてください。
 ぜひ、ご協力、ご参加をお待ちしています。ご意見、ご質問がありましたら、気軽にツイッター上で @hoshinot 宛てに尋ねてください(すぐにお返事できない場合も多々ありますが)。
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by hoshinotjp | 2010-07-16 12:56 | 文学
 7月10日の日記で書いた、岡村淳さんの「下手に描きたい」。サウダージ・ブックスの淺野卓夫さんが、ブログですばらしい評を書いている。
 これを読んで、いきなり思い出したのは、10歳前後のころ、アルファベットの記された乾パンみたいな木片を組み合わせて単語を作る遊びに熱中したことだ。そのころ、私の父親は病気がちで、しょっちゅう入院していた。母親はその看病に忙しく、私が帰宅しても不在であることも多く、それを心配したのか、私は同じマンションでごく小さな英語教室を開いている、アメリカ帰りの年配の女性のもとに、友だちとともに週一で通わされていた。そこには、アメリカで生まれた私に英語を覚えさせておこうという意図もあったと思う。
 だが、英語の勉強は退屈で、すぐに飽きてしまった。それで先生は、クロスワードパズルを積み木にしたような、アルファベットの木片を組み合わせて英単語を作るおもちゃを持ち出したのだ。
 私はハマった。いつもその遊びばかりをしたがった。おかげでちっとも英語は覚えられなかったが。
 2歳半でアメリカから帰ってきたころ、私は日本語の文章に英単語をところどころ交ぜてしゃべっていたという(赤ん坊の荒川修作かよ?)。両親は日本語ネイティブなので、テレビや近所の子といった環境の影響で覚えたのだろう。まあ、gunとかmoonとか、その程度だけど。それで、1歳上のいとこを途方に暮れさせていたという。
 何しろ記憶がないので、事実かどうか、確かめようがない。あくまでも親の記憶にすぎず、40数年の前のことだから、それも物語化されていることだろう。
 ただ、そのような思い出を聞かされた小学生の私は、不安に陥った。私には決定的な欠落があると、漠然と感じていた。アメリカ生まれ、ということを、ないことにしたい気持ちがあった。
 まあ、こう書いていること自体、物語化にすぎないとも言える。今の私との因果など、わかりようもない。
 ともかく、「下手に描きたい」を見てから、何のスイッチが入ったのか、自分の忘れていた幼少期の感覚が次から次へとよみがえる。しかも、淺野さんの文章からさらに喚起されてしまうことの不思議さ。一体、何が起こっているのだろう?
 16日(金)は、岡村淳さんフェスティバルの千秋楽である。まずは押さえたい3強、「郷愁は夢の中で」「ブラジルの土に生きて」「あもーる・あもれいら 1&2」で幕を閉じる。横浜のシネマ「ジャック&ベティ」へ急ぐべし。
 ちなみに、14日に岡村さん2時間一人語りを聞きに行き、飲み会にも行き、どうしたら豊かに生きられるのか、またひとつ、人生で大切な姿勢を教わった。
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by hoshinotjp | 2010-07-15 23:51 | 映画
 今日から横浜のシネマ「ジャック&ベティ」で始まった岡村淳さんのドキュメンタリー映画祭(16日まで)。私は、今現存する世界中のドキュメンタリー映画作家で、最も最前線にて、最も妥協なく闘っているのが、岡村さんだと思っている。こんなに妥協なく筋を通している表現者を私は他に知らない。
 でも岡村さんの作品は、一見、そんな過激には見えない。ちまたの目からこぼれ落ちる人々を、きわめて辛抱強く長い時間をかけて追い続ける。とてつもなく優しく、かつ打たれ強いまなざしで。そうして対象となる人との信頼が築かれていくさままでもが、映像に収められる。
 岡村さんの長篇全作品が一挙に映画館で上映される機会は、じつは初めてだ。これは画期的な出来事なのだ。この機会を逃さず、ぜひとも岡村ワールドと、岡村さんという人間を体験してほしい。すべての上映で、岡村さんのトークがある。このとてつもない魅力を持った岡村さんを生で見るだけでも、価値があるぐらいだ。誰にも似ていない異才である。
 どの作品もお薦めだが、ひとつだけ見るとしたら、「あもーる・あもれいら」2部作は必見だ。これは岡村作品のひとつの到達点だ。また、長篇第一作である「郷愁は夢のなかで」も強烈な作品。自作の浦島太郎を一人で誰にともなく語り続けた孤独なブラジル移民の記録だ。この作品には、岡村さんのすべてが詰まっている。「ブラジルの土に生きて」は、前半は夫、後半は妻が主人公。私は後半の主人公である敏子さんに私淑した。この方の生きざまは、本当に人に勇気を与えてくれる。……と書いているとすべての作品に言及してしまいそうなので、詳しくは上映の案内を見てください。

 さっそく私も今日の夜の回の『下手に描きたい』を見て、即興で岡村さんとのトークをしてきた。
 ネタバレも何もない映画なので、率直に感想を書く。トークで話しそこなかったことも。話してしまえばよかったのに日記。
 画家の森一浩さんが、その場で抽象画を描く「ライブ」の様子が記録されるこの作品。岡村作品初の「密室劇」で(舞台と言ってもいいかも)、ただならぬ緊迫感が漂う。そして絵を描く合間に、森さんが絵と人生を語る。
 森さんの語る絵画の話は、私の考える文学と重なるところがあって、そこは人ごとでなく感じたのだが、じつは森さんの語る人生も、人ごとではなかった。ブラジル移民のことしてブラジルで生まれ、5歳で日本に移り住んだ森さん。移民の子ではないが、私はアメリカで生まれ、2歳半で日本へ移る。森さんのようにいじめられはしなかったが、自分がアメリカで生まれたことを口にしてはいけないという怯えとともに子ども時代を過ごした。違っていることはまずい、何とか「上手く」合わせていかないといけない。この「上手く」の対としてあるのが、「下手に描きたい」の「下手」だ。その意味で、私も「上手く」生きることから脱落するために、小説を書いている。つまり、小説を書くことが、「下手」であることなのだ。
 そんなわけで、やたらとシンクロしてしまう作品だった。ただ、絵を描いている場面を撮しただけとも言える作品なのに、その奥行きははてしなく深い。岡村作品の醍醐味である。
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by hoshinotjp | 2010-07-10 23:31 | 映画
『俺俺』 収録外のまえがき その5「編集者の存在について」

 昨夜は、『俺俺』の担当編集者と打ち上げをした。この本一冊作るのに、雑誌「新潮」の担当編集者二人(育休のため担当が途中で替わる)、「新潮」の編集長、雑誌掲載時の校正者、単行本の担当編集者、単行本化の際の校正者、装丁のデザイナー……と、何人もの人が携わっている。さらに、それぞれの責任を取る上司や、本屋へ売り込む営業の人、本屋で売る人、と考えると、たった一冊のためにものすごい量の人が関わっていることがわかる。
 要するに、私一人で書いているのではないのだ。書かれた小説については私が全責任を負うが、それを本という形にして読者に届けるには、深く関わった人だけでも10人ぐらいいるのだ。
 ありがたいのは、その人たちが皆、真摯に多大な労力を費やして、この本を少しでもよいものに、完成度の高いものにしてくれようとしたことである。そのような環境で小説を書けることは、ものすごく恵まれていることだ。このことは忘れてはいけない。
 繰り返すが、自分一人で書いているのではない。これは一種のチームなのだ。チームの中に信頼があれば、どれほどよい結果が生み出せるかは、ワールドカップの日本チームで見たばかりだ。幸い、私はこのチームを深く信頼して仕事をすることができた。だから、今はとても充実感がある。もし、自分のことばかり考えて傲慢になり、チームの信頼をなおざりにするとなると、敗退していった強豪チームのような結果になるだろう。
 だが、いつまでこのようなチームとして本を作る形が維持されるのか、不安もある。基本的に、書籍が電子化されてもこのチーム作業は必要不可欠だと思うのだが、現実には、電子化に伴いこの労働が安く買い叩かれる懸念がある。現に、同じフリーのライターが記事を書いても、電子媒体の原稿料は、紙媒体の原稿料より数段安い。フリーの編集者も同様の扱いである。つまり、電子媒体にしてコストを下げる際に、これまでの編集の労力を「自由化」(「新自由化」と言ったほうがいいか)するということが行われうるのだ。
 執筆自体は一人の孤独な作業だけれども、それを本という形にすることは一人二人ではできない。そういう複数の関係性がコンテンツの完成度を保証していることを、私は大切にしたい。
 ちなみに、『俺俺』は、そうして自由化されて安く買い叩かれた交換可能な人間の生態を書いたものである。そのときに、自分を自分たらしめるべく、自分の価値をどこに置こうとするか、それを間違ってしまったのが「俺」である。だから「俺」は男とは限らない。でも圧倒的に男が多い。
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by hoshinotjp | 2010-07-10 16:56 | 文学
『俺俺』 収録外のまえがき その4「結末について」

 この作品の結末について書くわけではありません。ネタバレの心配はございません。

 ここ何年か、文学にかかるようになってきたプレッシャーのひとつに、「前向きな結末を」というのがあります。作品の締めくくりは前向きに明るい印象にしてほしい、ということです。
 私にはこれがまったく理解できません。なぜなら、日常やこの社会からの重圧から解放されたくて文学作品を読む、といった経験がないからです。私にとって、文学作品を読むことは、日常や社会と格闘したり何とか屈せずに折り合いをつけるための知恵でありトレーニングなので、そこから解放されたり癒されたりするためではありませんでした。
 もちろん、そのような目的にかなう芸術作品が存在するのは悪いことではないと思います。時にはそれも必要だと思います。私もそれを必要としています。
 けれど、重要なのは、目を逸らさない、真正面から受け止めることです。そしてその力になるのが、文学作品の役割だと私は思っています。
 実際、私が読んできた小説は、大半が「前向きな結末」などではありません。ドストエフスキーもフォークナーもカフカもウルフも、ガルシア=マルケスもプイグもルルフォも、たいていは重く苦しく暗い終わり方をしています。ただ、ネガティブとも言えません。そう見えても、じつはとてつもない爆発力を持っています。
 要するに、結末がネガティブかポジティブかなんて、どうでもいいのです。その小説のパワーによって、自分の中の、自動化したものの見え方・感じ方が動かされることが重要なのです。
 これだけ希望や明るい見通しのない社会に生きていると、「前向きな結末」を欲する気持ちはわからないではありません。でも、それは癒しを求めるこの十数年の風潮と軌を一にしていると思います。依存症が蔓延する傾向と同根です。なぜ、希望や明るい見通しが消えていく一方なのか、その原因からどこかで目を逸らしてしまっているからではないでしょうか。せめて、文学の場では、それを見極める努力を、苦しくてもすべきでないのか。
 文学は、嫌なものを隠したり、口当たりよく変えたりする媒体ではありません。見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを、見えるように聞こえるように感じられるようにする媒体です。
 もし文学までもが、結末のカタルシスを要求する風潮になびいてしまったら、ただその場の心地よい忘却を与えるだけの薬物に成り下がってしまいます。その結果は、私たちがさらに強い刺激物を求めるようになる、という中毒症状の深まりしかありません。現在のネガティブな社会は、依存症社会の結果だとも言えます。
『俺俺』は陰惨なテーマを扱っていますが、ことさら陰惨に書いたつもりはありません。結末も、見かけはどうあれ、ネガティブともポジティブとも言えないものです。ネガティブ/ポジティブという分け方自体が、何かによる洗脳であり、依存へ追い込む力である、ということを、作品を書きながら考えました。
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by hoshinotjp | 2010-07-08 23:13 | 文学
 『俺俺』 収録外のまえがき その3「わかりやすさ、について」

 21世紀に入ったころから、文学にはいくつかのプレッシャーがかかるようになっています。その一つは、「わかりやすくしろ」「読みやすくしろ」。
 いたずらに難解だったり、これがわかるわれわれ、みたいな特権意識を持つ読者のための作品であったりすることには、私もうんざりです。けれど、読み手のほうは歩み寄ろうともせず、「自分たちにわかるように書いてくれ」という傾向には、唖然とするほかありません。基本的に文学とは、いや文学に限りません、芸術作品というのは、わからないから作る(書く、演じる)のであり、わからないから読む(見る、聴く、触る)のです。わかっていることを確認したり、自分の常識を疑わずに、自分に合わせて書かれた作品で納得するのであれば、それは引き籠もりです。スペインを旅行したいけれど、あの国のことはわからないから、スペインのほうからこっちに来てくれ、というようなものです。それが無理なので、国内のスペイン村へ行って、「自分はスペインがわかった」と思い、「スペイン行ってきたよ、よかったよ」と吹聴するようなものです。あるいは、隣駅まで歩いていくのがしんどいから、車で迎えに来てくれ、あるいは籠でも用意してくれ、と要求しているうちに、足が萎えてしまうようなものです。サッカーで言えば、俺はディフェンスもしないし、スペースにも走らないからな、俺に完璧なシュートを撃てるやさしいパスを出してくれ、と要求しているようなものです。こんな選手たちのいるチームはどうなるでしょうか?
 もちろん、わかりやすくできた読み物も必要です。それぞれの役割があります。文学は、書き手にも読み手にも考えさせることが役割です。文学が提出するのは、言葉にならないある感覚や空気や感触です。それを感じてから、考えるのです。
 文学作品を読むのは、一筋縄ではいきません。労力のかかる作業です。でも、その労力こそが、文学から得られる果実なのです。文学とは経験です。経験値をあげるトレーニングにして、出来事なのです。
 しかし、世は、「ひとことで言うとどういうことなのか?」という要求ばかりを苛烈に突きつけます。政治も、メディアも、小説も、音楽も、演劇も、美術も。人々は、140字以内で、あっという間に飲み込める言葉しか、受け付けられなくなりつつあるのです。自分の持てる能力を、驚くほど退化させているのです。
 その結果はどうなのか? 簡単に騙され、簡単に怒りを爆発させ(先日の敗戦の時のブラジル戦のように)、そこにつけこまれてまた簡単に洗脳され、ということを繰り返しているだけではないでしょうか。
 いたずらに難解であることと、そうではない「わかりにくさ」とは、まったく別物です。文学に正面から向き合い続けていれば、その違いはすぐにわかるようになります。つまり、簡単には騙されなくなります。
 作品と読者がそれぞれ歩み寄る場所が、文学空間です。書き手として、私も歩み続けるので、読者もこちらへ歩くという労力をさいてくださればと願っています。
 次回は、文学にかかるもう一つのプレッシャーについて考えてみます。アップロードがいつになるかは、ワールドカップ次第です。
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by hoshinotjp | 2010-07-05 23:19 | 文学
 『俺俺』 収録外のまえがき その2「テーマについて」

 基本的に小説はどのように読まれても構わないのだが、私が書くに当たって考えたことは、ちまたですでに出回っている言葉で言えば「生きづらさ」についてである。
 ここ数年、私に取り憑いて離れないテーマは、自殺の問題である。年間の自殺者が3万人を越える年が10年以上続いているが、3万人の背後には、自殺の瀬戸際にいる人がその10倍はいると言われている。さらに、その瀬戸際の近くにいる人はもっと多いだろう。そうやって考えていくと、誰もが自殺の渦のすぐそばに立たされていることがわかる。
 ほとんどの自殺のケースでは、自分の意思で死を選択しているのではなく、死以外の選択肢を奪われ、追いつめられるようにして死へ至っている。
 にもかかわらず、自殺した者たちは、社会の中で「負け組」と見なされる。そのことが自死遺族を苦しめる。じつは多くの人が自殺の近くにいながら、自殺した人を「負け組」として自分たちとは切り離そうとするのは、さもないと自分たちも自殺の渦に巻き込まれそうだからだ。だが、現実には、苦しい者同士がどんなに蹴落とし合ったところで、「勝ち組」には上がれない。この図式を作った「勝ち組」たちは、そんなことを許しはしない。
 この、苦しい立場の者が、さらに苦しい立場の者を蹴落とすことで、苦境から這い上がろうとする、という図式が、今の社会の「生きづらさ」を支えていると、私は思う。苦しい者同士が、互いに貶め合う競争社会。それが今の日本社会の風土だ。「自殺」とは、自分たちが殺し合う、という意味なのだ。
 文字通り、自分たちが殺し合う社会を、ちょっと極端にすることで目に見える形にしてみたのが、この小説だ。
 そんな負のスパイラルから抜けるには、どうしたらいいのか? 私自身が何とかそこにたどり着きたかった。その過程が、この小説を書く過程そのものだと言える。
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by hoshinotjp | 2010-07-03 22:05 | 文学
  『俺俺』 収録外のまえがき その1「装画について」

 新しい長篇小説、『俺俺』(新潮社)が昨日、発売されました。装丁の絵は、石田徹也さんの「燃料補給のような食事」。この小説には何としても石田徹也さんの絵を使いたい、石田さんの絵以外にはありえない、と思っていたので、この絵の使用を許可してくださった石田さんのご家族と静岡県立美術館には深く感謝しています。
 というのも、ちょうどのこの作品を構想している最中だった去年(2009年)の初めごろ、「アートコレクター」という芸術誌で画家の小野田維さんと対談したとき(小野田さんとは『水族』で、小説と絵のコラボレーションをした)、たまたま編集部の方に最近作った号として見せていただいたのが、石田徹也さんの特集号でした(雑誌は「美術の窓」)。
 ぱらぱらとめくるなり、世界は停止しました。私はその絵に釘付けになり、まわりの時空の一切がかたまっています。その絵は、青年が床にうつ伏せに丸まり、緑の毛布をかぶり、薬に溺れ、その丸まった背中の緑の毛布は小さな丘をなし、木が生え、芝生に覆われ、子どもが遊んでいる、「草食竜」という絵です。
 さらにページをめくって、また衝撃を受けました。室内に「石田家」と書かれた墓石があり、その前にヘッドホンステレオを付けた青年が体育座りをしています。墓石はベッドのように足がついて少し高くなっており、その下からうつぶせに倒れている男の裸足の足先がのぞいています。あたりには草や木が生えていますが、そこは一人暮らしの男の部屋の中なのです。窓からは半透明な電車が見えます。
 私はすっかり絵に飲み込まれ、自分がどこにいるのかさえわからなくなっていました。自分がそれまでいた現実より、その絵のほうがずっと強烈な現実でした。そして、その絵の世界こそ、私が新しい小説で書きたいと思っている世界でした。つまり、私が視覚的にでなく、五感で見ている現実の姿です。
 帰宅するのももどかしく、私はその特集を読みふけりました。そして、石田さんの人生自体に激しく共揺れしました。このような生き方感じ方をしていた人だから、この絵を描いたのだと、理解できました。それは私にとって、別の自分のようでした。
 さっそく、石田さんの遺作集(求龍堂)を買い求めました。あらゆる絵が、石田さんご自身の姿をモチーフにした、同じ顔の人物たちでできています。登場人物が男であれ女であれ、子どもであれ大人であれ老人であれ、全員が同じ顔。無表情の虚ろな顔。
『俺俺』は、帯の紹介文にあるとおり、「俺」が増殖する話です。自分が増えていくというより、人間は皆「俺」だったという発見の物語です。その発見は幸福でもあり、おぞましくもあります。
 当初は「俺」同士が抹殺し合う作品を考えていました。けれども、石田さんの絵に触発されて、「俺ら」の様態をつぶさに描く作品へと変わっていきました。常に石田さんの絵を傍らに置いて執筆を続けました。浜松美術館での回顧展にも行って、実物に触れてきました。だから、この小説は、石田さんとの共作だと、私は勝手に思っているのです。
 ツイッターで、作家の盛田隆二さんも書斎に石田さんの絵を貼っていらっしゃると知って、同じような意思で小説を書いていらっしゃるのだと、心強く感じました。
 石田さんの絵に感ずるところのある人にも、ぜひとも読んでいただければと思っています。
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by hoshinotjp | 2010-07-01 17:36 | 文学