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 拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。
『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現実には普通の存在なのだ、ということを可視化し、メジャーな存在との軋轢を描こうとしてきた。さもないと、自分が生きるのが苦しかったからだ。
 だが、メジャーな存在、つまりマジョリティは、本当にマジョリティなのか、ということが一方で気にかかっていた。メジャーな立場とは、マイナー立場に対し、権力を持っている側である。強く立てる側である。
 差別や排除が起きたとき、一見、そこにある境界こそがメジャーとマイナーを分けるラインに見える。けれど、そのラインの前線に立っている者、すなわち、差別や排除を行っている当事者たちを見ていると、必ずしも何らかの権限を持つとは限らない。実際には、マジョリティの中で最下層に位置し、マジョリティからこぼれ落ちないことに必死で、あっぷあっぷで、その中では何の力も権力も持たなかったりする。この必死さが、具体的な排除行動となり、あの異質な連中とは違うという叫びとなる。自分がマジョリティであることを常に証明しなければならないのだ。照明に失敗したら即、こぼれ落ち、自分が今まで排除していた側に組み入れられてしまう。
 となると、前線に立たされているのは、どちらもマジョリティではないとも言える。そもそも、マジョリティなんてあるのか、という気にもなる。私はそれと見えないところに存在していると思っているが、それは数でいえば圧倒的に少数の権益者たちだ。つまり、圧倒的多数は現在、マイナーな立場に本当は置かれているのだ。マイノリティたちが、幻想のマジョリティの椅子を奪い合い、線引きしあっているのだ。
 そのように感じ始めてから、この前線を書こうと思うようになった。それが『無間道』であり、『俺俺』である。この2作はそれぞれ別個の作品であるが、私の中では2部作である。
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by hoshinotjp | 2010-10-30 23:23 | 文学
 湯崎広島県知事が育休を取ると宣言したこと(すでに子どもは産まれ、湯崎知事は早速時限的に育休を取っている)に対し、橋下・大阪府知事が「世間では育休を取りたくても取れない人がいるのに、世間知らずだ。首長はみんなが育休を取れるような環境を作ってから取るべきだ」という趣旨の発言したことに対し、何とも言えぬ違和感を感じる。
 私が就職した二十数年前、一般的に会社には、その職場でみんなが残業していると一人だけ仕事が終わったからといってすぐには帰りにくい、という風土があった。特に、上司がいると、先に帰るなんてことはほぼ不可能であった。このため、何となく会社に残り、その結果会社にいる時間がやけに長く、家庭で費やす時間が少ないのが、日本の平均的なサラリーマン生活だった。そしてそれは、日本社会のメンタリティでもある。
 時短が言われた90年代になって、長時間労働を減少すべく、とにかく上司が率先して仕事を切り上げて帰る、ということが奨励された。周囲の視線で自分の行動を決める傾向の強い日本社会では、自ら突出しようという者はきわめて少なく、横並びでないと決断が難しいのである。
 男が育休を取りづらい原因の一つには、この横並び意識が障壁となっていることもあるだろう。そうである以上、まず、取りやすい立場の者から取ることで、他の者たちも取りやすくする、という手順はやむを得ないと思う。
 橋下知事の発言は、真意はいろいろあるのだろうが、私には、「横並び意識を守れ」という意味あいも含まれているように感じられた。その後、広島県庁に寄せられた意見が、8割は「知事の育休取得反対」で、その理由が「取りたいのに取れない人がいる」という結果だったのは、橋下知事の発言も影響していないとは言えないだろう。
 私はここに悪い意味でのポピュリズムを感じる。世の人の、羨望や恨みといった弱みに訴えかけることで、感情的にさせ、その熱狂の力を自分の味方とするのである。橋下知事は知事以前から、しばしばこの手法を使っている。人々のこういう感情に火をつけてしまうと、冷静に「知事が育休を取るべきかどうか」を議論することは難しい。
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by hoshinotjp | 2010-10-29 22:31 | 政治
 寒い日が来るのを待っていた。夏の終わりに購入したRIVORAという新しいブランドのジャケットが着られる日を、心待ちにしていたのだ。そして木枯らしの吹いた今日、ジャケットのデビュー。
 ジャケットを着て出かけた先は、来年のRIVORA春夏コレクションのエキジビション。このジャケットですっかりRIVORAの虜となった私は、わくわくしながら出かけた。その期待は裏切られず、どれもこれも魅力的な服ばかり。また、今回から、メンズだけでなく、レディースの服も作り始めたとのこと。これもまた素敵だった。
 RIVORAの服で私が気に入ったのは、まず、デザインが大人なこと。これ見よがしの子どもっぽさはなく、奇を衒う前衛でもなく、しかし保守性とはほど遠い洗練の極み。
 以前にもツイッターで書いたが、あまりにファッショナブルなので、さほど服飾に縁のない私が着てもよいのかと、初めて見たときは腰が引けた。けれども、勧められるままに羽織ってみて、びっくり。
 ものすごく着心地がいいのだ。肌触り、体を締めつけない柔らかさ、そして軽さ。スタイリッシュなのに、楽なのだ。
 今年の冬物としては、ジャケットと手袋(これまたとっておき)だけを購入したが、次のシーズンは買い込んでしまいそう。
 おしゃれな人間ではないので、あまり服は買わず、10年前の写真を見ても今と同じ服を着ていたりする。それもあんまりだなと思い始めたところに現れたRIVORA。これを定番としてあれこれそろえることに決めたのだ。
 素材が選び抜かれ、細部まで丁寧に考えられて作られている(made in Japan)ので、安くはない。でも、このクオリティとデザインのレベルで、同等の既存ブランド製品と比べると、とてもリーズナブルである。デザインの好みがRIVORAと同系統なら、迷わずこちらを選ぶ。
 東京では、表参道ヒルズ2階に8月にオープンしたばかりの「MINDTRIVE」で、買うことができる。
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by hoshinotjp | 2010-10-27 23:18 | 身辺雑記
 サッカーという競技のよい点の一つは、誰でもどこでもできるということである。11人制のサッカーに限らず、フットサル、適当な人数での草サッカー、ブラインド・サッカー(盲人のサッカー)、聾唖者のサッカー、車椅子のサッカー、ボールのないエア・サッカー……。
 私がこのところ肩入れしているのが、ホームレス・サッカー。路上生活者の活動で、ビッグイシュー・ジャパンが支えている。じつはホームレスサッカーにはワールドカップまである。しかも毎年。2008年の南アフリカ大会の模様はドキュメンタリー映画にもなって、日本でも今年、公開された。
 日本からも過去2回、代表が出場している。その名も、「野武士ジャパン」。侍ジャパンなどより強そうではないか。最初が2004年のイエーテボリ大会(スウェーデン)、2回目が去年のミラノ大会。ミラノ大会の野武士の姿は、フジテレビの「NONFIX」で放映された。毎年は出場できないのは資金の問題である。
 そして現在、ホームレス・サッカーのプレーヤーたちは、来年秋のパリ大会目指して、練習を積んでいる。コーチは、サッカーを本格的にやっていた若い衆がボランティアで務め、ただいまディフェンスの猛特訓中である。ここふた月ほどで劇的に上達したと思ったのだが、今日はCITIグループのフットサル大会に参加して、まだまだであることを思い知らされた。
 私は夏にたまたま参加してから、荷担するようになった。最初は応援しているという気持ちから、サポートのつもりで顔を出したのだが、最近はあたかも自分がフットサルをしたいだけのような感じになっていて、どう関わったらよいのか思案していた。
 で、思案した結果、このままでいいや、と結論した。
 ホームレス・サッカーも、「路上文学賞」と同じじゃないかと思ったのである。要は、ピッチという同じ地平の上で、誰であろうが構わずサッカーを楽しんでいることが肝心なのだ、と。ピッチの上に立つ者たちの間に線引きはなく、ただサッカーをしたい人たちがいるだけ。
 そのような意識を持つことは、なかなか難しい。でも回を重ねて一緒にプレーしていると、いつの間にか、そんな心境になるのだ。野武士の連中が上達して嬉しいと私が感じるのは、同じサッカー仲間が上達しているからだ。
 さらに私が未来のビジョンとして妄想するのは、そのような線引きのないサッカーが、路上のあちこちで展開されている図である。まるでホコ天のように、ある特定の曜日の特定の時間に路上が開放され、サッカーをしたい者が集まって、そこここでサッカーをしているのだ。そんなストリート・サッカーが日常の光景になればいい。
 路上の開放は、今の私たちを縛っている目に見えない網から解放されることである。路上が公共の名のもとに自由に使えない社会は、いつも何者かの目に怯えて生きる社会である。日本は今、業界だったり世間だったり学校だったり、それぞれのコミュニティ内部の目に怯えてみんな生きている。路上を開放するということは、その視線の縛りを無効にすることだ。
 そんな気持ちと考えから、「フットボール・ゲリラ」という短編小説を書いた。来週発売予定の新しい文芸誌「In The City」(ビームス刊)に掲載されています。
 ホームレス・サッカーや野武士ジャパンに関心を持った方は、こちらのブログから担当者にご連絡ください。
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 ツイッターを本格的に使うようになって、ほぼ1年が過ぎた。ツイッターにしてからブログの更新が滞っているのは、世の大方の人と同様なのだが、どうも自分の脳が硬直していっているように感じるのは、気のせいではあるまい。長い文章を書かなくなると、脳が劣化していくように感じるのだ。ただひたすら反射神経ばかりが鍛えられるだけで。
 それでブログをメインに戻そうと思うのだけど(書きたいこともたくさんあるし)、時間がない。ツイッター以前には、ブログを書くための時間を作っていたが、その時間が、ツイッターを読んだり書いたりやりとりをする時間に費やされ、消えるのである。
 人にもよるのだろうけれど、私はプロの文章の書き手として、自分が体半分ぐらいツイッターに浸っているこの日常が、自分の仕事にとってあまりよくない影響を与えているように思う。明らかに、以前よりも、ものを考えたり書いたりする際の集中力が落ちた。ゆるく短い文章を書くのは気楽だけれど、体力も使わない。それを続けているうち、長い文章を書こうとすると、心身がついて行かないのである。それだけのテンションを上げるのに難儀しているのである。
 すぐに集中して考え、長々と言葉にまとめられるというのは、プロの文章書きが身に付けている、最低限の技術である。ツイッターに頼っているうち、その技術が劣化し、それを支える体力も低下した。
 そんなわけで、リハビリもかねて、ブログをメインに戻し、更新の頻度を以前ぐらいに上げていこうと思う(週に最低2回は書く、ぐらいのペース)。
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by hoshinotjp | 2010-10-22 04:48