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 それにしても柳田発言にはまるで自民党時代みたいだと空しさを感じている人が多いことだろう。あの手の空虚な失言で大臣が辞めるということを繰り返し、政治が機能しない状態に愛想を尽かした、ということも政権交代を有権者が望んだ理由の一つだったはず。わずか1年ちょっとで同じような事態を目にするとは。
 そもそも、なぜこんな人間が大臣に任命されたのかわからない。鳩山内閣はそれでもまだ大臣の顔ぶれに期待を抱ける要素があった。その人たちが期待にかなう仕事をできなかったことが失望の原因ではあったが、閣僚によっては、期待にかなうのにはあまりに時間が足りなかったという側面もあった。
 だが、今の内閣は、そもそもこの人がなぜこの閣僚をしているのかよくわからない、という、発足時から期待の持てない雰囲気があった。人選に小沢氏のアンチかシンパかという人事的理由が色濃く出ていたのも、鳩山内閣発足時の、適材適所を優先した人選からはほど遠いやり方だ(鳩山内閣がいいというのではなく、民主党政権の存在理由はそこにあった、という意味)。烏合の衆の政党は、結局はこうなるしかないのだろう。解散総選挙は近いと思う。もううんざり。選択肢は皆無。政治に対してどんなスタンスを取ればよいのか、途方に暮れる。こういうときは「ビルマVJ」を思い出して、虚無に陥ることが最悪の事態を招くのだ、と自分に言い聞かせる。
 加えて、こんな発言ばかりがニュースとなって、肝心の法案の内容などがメディアの報道から漏れていく事態に、さらに空しくなる。こんな国会をしている議員たち(与党も野党も)の異常さを断罪し、メディアが国会に代わって政策の問題点を論じるぐらいしてもいいのではないか。
 民主制の自死が近づいている。これを終わらせたら、苦しむのは有権者及びこの社会に暮らす住民全員である。淡々と、自分にできることをしようと思う。
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by hoshinotjp | 2010-11-18 23:31 | 政治
 柳田法務大臣の、聞いた自分が愚かにさえ感じられるほど馬鹿げた発言。あのような発言が生まれる背景を考えるに、「ウケを狙いたい」というメンタリティが異常なまでに肥大した社会であることが関係しているような気がする。
 ウケを狙うと言っても、何でも笑いに変えてしまう芸人の精神を指しているのではなく、象徴的に言えば、「1980年代的なメンタリティ」となろうか。笑いを取れる者は「ネアカ」とされてもてはやされ、その笑いを共有する・しないで線引きが行われ、笑いを取れない者・笑いを共有できない者は「ネクラ」とされる風土である。
 じつはこれは、小学校や中学校の教員と生徒の間で、非常にわかりやすく機能している。「セクハラさいころ」事件だとか、特定の生徒をいじめ的にからかうような教師の言動や、非常識な例を試験問題にするなどといった事例が相次いでいるのも、この風土の力ではないかと私は思う。それ以前には予備校のカリスマ講師にこのタイプがゴロゴロしていた。つまり、聴衆のウケを取ることで、その集団からもてはやされたいのだ。
 集団の中で笑いを共有できないという事態は、その人に恐怖をもたらす。マイナスの意味で目立つため、いじめ的な目線の対象になりやすいからだ。だから、たいていは無理して笑う。そしてその次の段階として、同調して受け入れられるために、心にもない冗談を放言したりする。「笑いを取れる者」というレッテルは、たんに集団内の人気者というだけではなく、日本社会では社会的地位にまで関係してくる決定的な評価基準なのだ。
 この態度が身に染みついてしまった結果が、「セクハラさいころ」であり、「法務大臣は二つの形式的で無内容な答弁だけしていれば済むという楽な仕事」という「ジョーク」(のつもりだろう本人は)なのではないか。それが大臣の職務にある者(しかも法務!)の口から出るのだから、いじめなどなくなるどころか、苛烈になる一方なのは当然である。
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by hoshinotjp | 2010-11-17 23:17 | 社会
A「おおい、ついに殺人犯を捕まえたぞ」
一同「本当か!」
A「ほら見ろ、間違いない。目撃証言とそっくり同じだ」
一同「ほんとだ。確かにこいつが犯人だ。さらし者にしてやろう!」
B「まずは裁きにかけないとまずいでしょう」
A「何言ってるんだ。裁きの手に渡ったら、証拠不十分で刑が軽くなる可能性が高いんだぞ。だから裁きの手に渡る前にと、俺が必死で捕まえたんじゃないか」
一同「そうだ。裁きは信用できない。能力が足りてない」
B「確かに能力は足りてないけど、うちら自分たちで決めたルールだろ。私刑は禁止、何人も裁きにかけられるべしって。裁きの連中だって、うちらが選んだんだし」
A「だから無能だったんだよ。もうお役ご免なんだよ。さもないと、こんな危ない連中がのさばって、俺らがやられちまう。自分がやられちまうって時に、おまえはルールを優先するのか? だから優等生は嫌なんだ。いつも誰かに何とかしてもらおうと思ってやがる」
B「誰か、じゃないよ。自分たちで決めたルールは、自分の責任だろ。お役ご免なら、ルールに従ってお役ご免にすればいいじゃないか。そういうルールも作ったじゃないか」
A「そんな悠長なこと言ってられないんだよ。緊急事態なんだ」
B「緊急じゃないよ。もう身柄確保したんだから」
A「おい、みんなはこいつをどうしたい? Bの言うように裁きにかけるか?」
一同「冗談じゃない! 無罪放免だってしかねない連中だ。われわれの手で裁こう!」
A「世のため、人のため、俺たちで裁いていいか!」
一同「おう! 目にもの見せてやろうじゃないか」
A「俺はこいつを死刑に処すべきだと思うが、みんなはどう思うか?」
一同「死刑だ!」
一同「それも公開処刑だ!」
一同「われわれの恐ろしさを見せつけてやる!」
一同「われわれをなめるとどうなるか、思い知らせてやる!」
A「俺たちこそが、ルールだ!」
一同「そうだ、われわれこそがルールだ」
A「いつまでもいいようにされてたまるか!」
一同「われわれの声を聞け!」
一同「Aこそがわれわれの声を代弁している!」
A「俺はみんなの良心に従ったまでだ」
一同「Aについて行くぞ!」
一同「おお! Aについてくぞ!」

 日本は文民統制の国である。議院内閣制を取っている。たとえ、その政権が無能でも、選挙で公正に選ばれた以上、政権に対して、有権者も責任を負っている。政権が無意味だと感じて替えたければ、しかるべき手続きを経る必要がある。
 それをせずに、重要な政策を、政権も議会も無視して勝手に決めて遂行するのは、軍部が内閣を無視して勝手に事変を起こして侵略する行為と等しい。それを正しいと決めるのは有権者であり、その意思表示と権力行使は最終的には選挙を経る以外の方法はない。これは法治国家として、最低限にして最後の歯止めである。
 暴走する軍部を英雄視すれば、首が絞まるのは自分たちである。
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by hoshinotjp | 2010-11-10 23:43 | 政治
 尖閣諸島事件のビデオを何者かが流出させた件について、政治家を始め、ちまたの人々からも「よくやった」という評価がかなりの程度見受けられるさまを見ていると、これは昭和初期の「白色テロ」だなあ、と感じる。政党政治への不信から、法を無視して、実力行使で政治経済の権力を自分たちの手に奪い返そうとする行為である。
 政党政治は建前上は、多様な主義主張を、議会という話し合いの場で調整しましょう、という制度だから、その否定とは、「多様な主義主張は認めない」、あるいは「多様な主義主張を暴力で決着つけましょう」となる。全体主義か独裁である。
 政党政治が信じるに足る存在ではないのは、私も含め、誰もが感じていることだろう。もう終わっている自民党には退場してほしいが、烏合の衆に過ぎない民主党も、有権者の期待にほとんど応えられないでいる中、ではどの政治家を選べばよいのか、選択肢のなさを痛感している。
 まともな政治家がいない。それは確かだ。ただ、では、政治家って何なんだ、と考えると、たんに「政治家が悪い」とばかりも言っていられない気がしてくる。民主政治では誰にでも、投票する権利の選挙権と、有権者の代表となりうる被選挙権の両方がある。被選挙権を行使しないのは、投票によって自分の主義主張を他の人に託しているからだ。もし誰にも託せないのなら、自分が主義主張を述べる立場になるという選択肢が残っている。
 もちろん、資質だとか、資金だとかの面から、立候補したくたってできない人のほうが大半だろう。それならば、自分の主義主張を代弁して実行してくれる人を育てていかねばならない。
 日本の社会は、この「有権者が政治家を育てる」という部分を、何十年にもわたって怠ってきた。だから、政治家にお願いすることは多くても、自分がやるのだ、自分も議員ではないが政治に参加して責任を負う当事者なのだ、という政治意識があまり育ってこなかった。
 それが民主党政権に体現されていると思う。それで民主党がうまくやらないといって癇癪を起こして、政党政治という話し合いで解決する場を捨て、実力行使に出るのでは、まるで言葉では意思表示できない子どもではないか。
 法を無視した超法規的行動を認め、代表制民主主義の権力を無視した国家、というと、思い浮かぶ例は北朝鮮などである。英雄的行動を望む短絡的な衝動は、あのような社会を招き寄せてしまう。
 とはいえ、新しい政治を育てる余裕を持っている人は、今の社会では少ない。明日が不安な状況に追い込まれて、精神的にも経済的にも、待つだけのゆとりはないのが現状だ。
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by hoshinotjp | 2010-11-07 12:22 | 政治
 村上龍氏が電子出版社を立ち上げたことについて、他の人はどう思うか知らないが、メディアとしての作家ということに極めて自覚的である村上氏の才覚が、この転換期を間違いなく捉えたと感じた。以下、それほど電子メディアに詳しくはない私が、今日考えたこと。
 たまたま今日は坂本龍一さんのサンフランシスコ・ライブのUstream中継を昼に見て(というより聴いて)、深い感銘を受け、この現実の意味を考えたのだった。あのクオリティの高いライブ中継が実現したのは、坂本龍一さんという存在の、蓄積された経験や人脈、ノウハウと、メディアについての知識・関心と、自身がメディアとして機能するだけの知名度があってこそではあるだろう。ただ、このノウハウが確立されれば、誰でもが費用をかけずにクオリティの高い中継をすることができる、ということを意味している。
 電子書籍が向かう地点も、そこだと思う。誰もが自分の作品を自分で出版できること。むろん、それがいわゆるプロの作家でなくても構わない。誰もが、というのはその点を含むことが重要である。
 私も、以前、仲俣暁生さんから、ごく素朴だが自分で電子書籍の形態にできる方法をちらりと伺ったとき、まずはエッセイでもまとめてこっそり出版してみようか、だとか、Plantedで連載していた連作を図版とともに作ったら楽しいだろうな、だとか、とりとめもなく夢想した。自分の作品だけでなく、あの人の文章が本になればいいなとか、あれこれ自分で作れる、ということの楽しさを、このときにほんのりと味わってみた。
 だから、村上氏の試みを知って、そうだよな、ここまで作家がやっていいんだよな、というより、やるべきなんだよな、と思った。電子書籍の究極が、個々人による出版であるならば、その道筋を作るのが既存の大企業であるのはそぐわないのだ。個々人の意見と試行錯誤の中でできあがっていくのがふさわしい。
 では、これまでの自費出版とか、ブログやホームページで作品を掲載するのと、何が違うのか?
 流通の権限を誰が持っているか、が違う。取次と結びついた出版社の存在とは、端的に流通を握る者、であった。作品を本にしてくれるかどうか、よりも(自費出版できるのだから)、それを全国の売り場で売ってくれるかどうか、が権限の源であった。
 電子出版は、その権限をかなりの部分、個人に返す。だから、発信することに意味ができてくるのだ。作っては見たけれど人の目に触れない、という状態から、もう少し人の目に触れる可能性ができてくる。流通の独占を骨抜きにしてしまったことが、画期的だと思うのだ。
 たくさんの作品が電子書籍化すると、今度はその情報整理が必要になってくる。リアル書店と違って、物がそこにあるわけではないので、情報の中に埋もれてしまうと見えにくくなる。そこで、情報を握って整理しそれを示す力がある者が、一番の権力を持つことになる。流通の権力から、情報の権力へ。その権力を握ろうとしたのが、アマゾンでありグーグルだった。けれども、ツイッター時代に入って、情報の流れを特定の権力者がコントロールするのが、難しくなっている。つまり、ツイッター的な情報の流通と、Ustreamや電子出版が結びつけば、作品を発信する権利を、特定の組織や業界が独占することは不可能になるのだ。
 誰もが発信し、誰の発信もが多数に認知される可能性がある、ということは、機会の平等につながる。ただ、それはポピュリズムを待望するような空気の中では、全体主義的な熱狂をとてつもないスピードで煽る役割も果たす。
 だから私は、希望と恐怖を両方感じている。加えて、紙の本で育った私は、これからいくら電子書籍も利用するようにはなっても、紙で本を読むことの楽さ楽しさから離れることはできないだろう。
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by hoshinotjp | 2010-11-04 23:29 | 文学