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 オープンしたばかりの神奈川芸術劇場で上演されている、チェルフィッチュの『ゾウガメのソニックライフ』を見た。心地のよい芝居だった。風通しがよくて、そこにいることが気持ちよかった。万人にアクセスしやすい作品なのかはわからないが、誰をも拒まない演劇だと思う。
 妙な言い方だけど、私が作品を見ながら連想し続けていたのは、小学5年生(4年生や6年生でもいいのだけど)の昼休みの光景だった。誰かしらが動いていたりしゃべっていたりして、一時も瞬間が止まることはない感じで、しかも舞台上の5人は等価に存在しているのだ。すごくなじみがある感覚だった。
 と、こう書いてもどんな作品かはわからないだろう。私もこれを言語化する術はない。言語化できないことを、芝居ではするわけだから。
 そもそも、私は芝居を語る言葉を持たない。なぜなら、これまでほとんど演劇を見てこなかったからだ。見てこなかった理由はいろいろあるが、その一つに、演劇特有の、演じる側と観客の強い一体感に、疎外を感じることが多かったというのがある。閉じた空間で生身の人間が演じるのを見るのだから、祭りに参加するようなもので、演技者と観客が一体感を得るのは当然だしそこに意義もあるのだけど、それがある閾値を超えると、閉鎖的な宗教儀式の領域に入り、その世界のやり方と歴史を共有しない者は排除されるような雰囲気になる。私はその共同性の強さが苦手だった。
 でも去年、ジエン社の『クセナキスキス』を見たら、私のそのアレルギーを和らげてくれるような作品だった(3月に行われるジエン社の新作の上演にも行く)。そしてこの『ゾウガメのソニックライフ』で、これからはもう芝居は普通に見に行っていいな、という気になった。まあ現実的には時間がなくて足を運ぶことがすごく増えることはないだろうけれど、心理的な規制は消えてしまった。
 つまり、私はこう思ったのだ。自分はずっとこのまま観劇の素人として、空間全体を楽しむ芝居に、ときどき身をさらしに行こうと。自分の体にいい気がするのだ。端的に、毎日言語を扱う仕事をしていると、自分は脳でしか存在していない、という気分に陥ることが多く、それを解放してくれる芸術なのだ。だから、言語化する気がない。もちろん、いろいろ考えるのだけど、それを言葉に変えて表明するのはまた別の行為。
 私は岡田利規さんの作品については小説から入っており、どうしても小説のほうから見てしまうけれど、それはそれでいいかなと。そしてその小説にも、演劇作品にも、さらには人としてのスタンスにも、大変共感している。一般に人が前提にしているような個人の区切り・輪郭は、本当にそれだけなのか? それはもっと曖昧で揺らぎのあるものかもしれないし、だとしたら、人と接しうる可能性はもっとずっと広いのかもしれない。ということを岡田さんの作品に触れるといつも思う。それを、生身の人間が演じている芝居で感じることができたのは、驚きだった。小説だと話者の語りのレトリックでそれを表現できるが、演劇では演じる役者が生身の一個人であってそれが制限になりそうなものなのに、その制限が逆に一個人の輪郭(と思われているもの)を破ってしまうという事態を目の前で見て、とても心地よかったのだ。
 語る術を持たないと言って語っているが……。でもまとまりをつけて書くことを放棄して書いたので、とりとめがない。
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by hoshinotjp | 2011-02-07 23:41 | 文学