尖閣諸島事件のビデオを何者かが流出させた件について、政治家を始め、ちまたの人々からも「よくやった」という評価がかなりの程度見受けられるさまを見ていると、これは昭和初期の「白色テロ」だなあ、と感じる。政党政治への不信から、法を無視して、実力行使で政治経済の権力を自分たちの手に奪い返そうとする行為である。
 政党政治は建前上は、多様な主義主張を、議会という話し合いの場で調整しましょう、という制度だから、その否定とは、「多様な主義主張は認めない」、あるいは「多様な主義主張を暴力で決着つけましょう」となる。全体主義か独裁である。
 政党政治が信じるに足る存在ではないのは、私も含め、誰もが感じていることだろう。もう終わっている自民党には退場してほしいが、烏合の衆に過ぎない民主党も、有権者の期待にほとんど応えられないでいる中、ではどの政治家を選べばよいのか、選択肢のなさを痛感している。
 まともな政治家がいない。それは確かだ。ただ、では、政治家って何なんだ、と考えると、たんに「政治家が悪い」とばかりも言っていられない気がしてくる。民主政治では誰にでも、投票する権利の選挙権と、有権者の代表となりうる被選挙権の両方がある。被選挙権を行使しないのは、投票によって自分の主義主張を他の人に託しているからだ。もし誰にも託せないのなら、自分が主義主張を述べる立場になるという選択肢が残っている。
 もちろん、資質だとか、資金だとかの面から、立候補したくたってできない人のほうが大半だろう。それならば、自分の主義主張を代弁して実行してくれる人を育てていかねばならない。
 日本の社会は、この「有権者が政治家を育てる」という部分を、何十年にもわたって怠ってきた。だから、政治家にお願いすることは多くても、自分がやるのだ、自分も議員ではないが政治に参加して責任を負う当事者なのだ、という政治意識があまり育ってこなかった。
 それが民主党政権に体現されていると思う。それで民主党がうまくやらないといって癇癪を起こして、政党政治という話し合いで解決する場を捨て、実力行使に出るのでは、まるで言葉では意思表示できない子どもではないか。
 法を無視した超法規的行動を認め、代表制民主主義の権力を無視した国家、というと、思い浮かぶ例は北朝鮮などである。英雄的行動を望む短絡的な衝動は、あのような社会を招き寄せてしまう。
 とはいえ、新しい政治を育てる余裕を持っている人は、今の社会では少ない。明日が不安な状況に追い込まれて、精神的にも経済的にも、待つだけのゆとりはないのが現状だ。
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# by hoshinotjp | 2010-11-07 12:22 | 政治
 村上龍氏が電子出版社を立ち上げたことについて、他の人はどう思うか知らないが、メディアとしての作家ということに極めて自覚的である村上氏の才覚が、この転換期を間違いなく捉えたと感じた。以下、それほど電子メディアに詳しくはない私が、今日考えたこと。
 たまたま今日は坂本龍一さんのサンフランシスコ・ライブのUstream中継を昼に見て(というより聴いて)、深い感銘を受け、この現実の意味を考えたのだった。あのクオリティの高いライブ中継が実現したのは、坂本龍一さんという存在の、蓄積された経験や人脈、ノウハウと、メディアについての知識・関心と、自身がメディアとして機能するだけの知名度があってこそではあるだろう。ただ、このノウハウが確立されれば、誰でもが費用をかけずにクオリティの高い中継をすることができる、ということを意味している。
 電子書籍が向かう地点も、そこだと思う。誰もが自分の作品を自分で出版できること。むろん、それがいわゆるプロの作家でなくても構わない。誰もが、というのはその点を含むことが重要である。
 私も、以前、仲俣暁生さんから、ごく素朴だが自分で電子書籍の形態にできる方法をちらりと伺ったとき、まずはエッセイでもまとめてこっそり出版してみようか、だとか、Plantedで連載していた連作を図版とともに作ったら楽しいだろうな、だとか、とりとめもなく夢想した。自分の作品だけでなく、あの人の文章が本になればいいなとか、あれこれ自分で作れる、ということの楽しさを、このときにほんのりと味わってみた。
 だから、村上氏の試みを知って、そうだよな、ここまで作家がやっていいんだよな、というより、やるべきなんだよな、と思った。電子書籍の究極が、個々人による出版であるならば、その道筋を作るのが既存の大企業であるのはそぐわないのだ。個々人の意見と試行錯誤の中でできあがっていくのがふさわしい。
 では、これまでの自費出版とか、ブログやホームページで作品を掲載するのと、何が違うのか?
 流通の権限を誰が持っているか、が違う。取次と結びついた出版社の存在とは、端的に流通を握る者、であった。作品を本にしてくれるかどうか、よりも(自費出版できるのだから)、それを全国の売り場で売ってくれるかどうか、が権限の源であった。
 電子出版は、その権限をかなりの部分、個人に返す。だから、発信することに意味ができてくるのだ。作っては見たけれど人の目に触れない、という状態から、もう少し人の目に触れる可能性ができてくる。流通の独占を骨抜きにしてしまったことが、画期的だと思うのだ。
 たくさんの作品が電子書籍化すると、今度はその情報整理が必要になってくる。リアル書店と違って、物がそこにあるわけではないので、情報の中に埋もれてしまうと見えにくくなる。そこで、情報を握って整理しそれを示す力がある者が、一番の権力を持つことになる。流通の権力から、情報の権力へ。その権力を握ろうとしたのが、アマゾンでありグーグルだった。けれども、ツイッター時代に入って、情報の流れを特定の権力者がコントロールするのが、難しくなっている。つまり、ツイッター的な情報の流通と、Ustreamや電子出版が結びつけば、作品を発信する権利を、特定の組織や業界が独占することは不可能になるのだ。
 誰もが発信し、誰の発信もが多数に認知される可能性がある、ということは、機会の平等につながる。ただ、それはポピュリズムを待望するような空気の中では、全体主義的な熱狂をとてつもないスピードで煽る役割も果たす。
 だから私は、希望と恐怖を両方感じている。加えて、紙の本で育った私は、これからいくら電子書籍も利用するようにはなっても、紙で本を読むことの楽さ楽しさから離れることはできないだろう。
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# by hoshinotjp | 2010-11-04 23:29 | 文学
 拙著『俺俺』の中で、【以下、ネタバレあり】「俺」化しない人たちが出てくる。「外国人」である。曖昧に「外国人」としか書いていないので、「外国籍」なのか、「外国育ち」なのか、「外国籍の親を持つ」なのか、わからない。要するに、日本社会の中で「異質」と見なされるがゆえに、「俺」社会からハズレることを恐れて「俺」化していく、という過程からも自由である立場の人たちである。もちろん、「外国人」でない人でも、そのような人はたくさんいる。が、小説では、あえて「外国人」に限った。なぜなら、視点人物が「俺」だからだ。「俺」には、そのような立場の人間が「外国人」として見える、というわけだ。
『俺俺』を読んでくださった方で、自分は「外国人」の側にシンパシーを感じる、という感想もいくつかあった。じつは、これまで私は基本的に、『俺俺』で言う「外国人」の側から小説を書こうとしてきた。かくかくしかじかのマイナーな存在は、現実には普通の存在なのだ、ということを可視化し、メジャーな存在との軋轢を描こうとしてきた。さもないと、自分が生きるのが苦しかったからだ。
 だが、メジャーな存在、つまりマジョリティは、本当にマジョリティなのか、ということが一方で気にかかっていた。メジャーな立場とは、マイナー立場に対し、権力を持っている側である。強く立てる側である。
 差別や排除が起きたとき、一見、そこにある境界こそがメジャーとマイナーを分けるラインに見える。けれど、そのラインの前線に立っている者、すなわち、差別や排除を行っている当事者たちを見ていると、必ずしも何らかの権限を持つとは限らない。実際には、マジョリティの中で最下層に位置し、マジョリティからこぼれ落ちないことに必死で、あっぷあっぷで、その中では何の力も権力も持たなかったりする。この必死さが、具体的な排除行動となり、あの異質な連中とは違うという叫びとなる。自分がマジョリティであることを常に証明しなければならないのだ。照明に失敗したら即、こぼれ落ち、自分が今まで排除していた側に組み入れられてしまう。
 となると、前線に立たされているのは、どちらもマジョリティではないとも言える。そもそも、マジョリティなんてあるのか、という気にもなる。私はそれと見えないところに存在していると思っているが、それは数でいえば圧倒的に少数の権益者たちだ。つまり、圧倒的多数は現在、マイナーな立場に本当は置かれているのだ。マイノリティたちが、幻想のマジョリティの椅子を奪い合い、線引きしあっているのだ。
 そのように感じ始めてから、この前線を書こうと思うようになった。それが『無間道』であり、『俺俺』である。この2作はそれぞれ別個の作品であるが、私の中では2部作である。
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# by hoshinotjp | 2010-10-30 23:23 | 文学
 湯崎広島県知事が育休を取ると宣言したこと(すでに子どもは産まれ、湯崎知事は早速時限的に育休を取っている)に対し、橋下・大阪府知事が「世間では育休を取りたくても取れない人がいるのに、世間知らずだ。首長はみんなが育休を取れるような環境を作ってから取るべきだ」という趣旨の発言したことに対し、何とも言えぬ違和感を感じる。
 私が就職した二十数年前、一般的に会社には、その職場でみんなが残業していると一人だけ仕事が終わったからといってすぐには帰りにくい、という風土があった。特に、上司がいると、先に帰るなんてことはほぼ不可能であった。このため、何となく会社に残り、その結果会社にいる時間がやけに長く、家庭で費やす時間が少ないのが、日本の平均的なサラリーマン生活だった。そしてそれは、日本社会のメンタリティでもある。
 時短が言われた90年代になって、長時間労働を減少すべく、とにかく上司が率先して仕事を切り上げて帰る、ということが奨励された。周囲の視線で自分の行動を決める傾向の強い日本社会では、自ら突出しようという者はきわめて少なく、横並びでないと決断が難しいのである。
 男が育休を取りづらい原因の一つには、この横並び意識が障壁となっていることもあるだろう。そうである以上、まず、取りやすい立場の者から取ることで、他の者たちも取りやすくする、という手順はやむを得ないと思う。
 橋下知事の発言は、真意はいろいろあるのだろうが、私には、「横並び意識を守れ」という意味あいも含まれているように感じられた。その後、広島県庁に寄せられた意見が、8割は「知事の育休取得反対」で、その理由が「取りたいのに取れない人がいる」という結果だったのは、橋下知事の発言も影響していないとは言えないだろう。
 私はここに悪い意味でのポピュリズムを感じる。世の人の、羨望や恨みといった弱みに訴えかけることで、感情的にさせ、その熱狂の力を自分の味方とするのである。橋下知事は知事以前から、しばしばこの手法を使っている。人々のこういう感情に火をつけてしまうと、冷静に「知事が育休を取るべきかどうか」を議論することは難しい。
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# by hoshinotjp | 2010-10-29 22:31 | 政治
 寒い日が来るのを待っていた。夏の終わりに購入したRIVORAという新しいブランドのジャケットが着られる日を、心待ちにしていたのだ。そして木枯らしの吹いた今日、ジャケットのデビュー。
 ジャケットを着て出かけた先は、来年のRIVORA春夏コレクションのエキジビション。このジャケットですっかりRIVORAの虜となった私は、わくわくしながら出かけた。その期待は裏切られず、どれもこれも魅力的な服ばかり。また、今回から、メンズだけでなく、レディースの服も作り始めたとのこと。これもまた素敵だった。
 RIVORAの服で私が気に入ったのは、まず、デザインが大人なこと。これ見よがしの子どもっぽさはなく、奇を衒う前衛でもなく、しかし保守性とはほど遠い洗練の極み。
 以前にもツイッターで書いたが、あまりにファッショナブルなので、さほど服飾に縁のない私が着てもよいのかと、初めて見たときは腰が引けた。けれども、勧められるままに羽織ってみて、びっくり。
 ものすごく着心地がいいのだ。肌触り、体を締めつけない柔らかさ、そして軽さ。スタイリッシュなのに、楽なのだ。
 今年の冬物としては、ジャケットと手袋(これまたとっておき)だけを購入したが、次のシーズンは買い込んでしまいそう。
 おしゃれな人間ではないので、あまり服は買わず、10年前の写真を見ても今と同じ服を着ていたりする。それもあんまりだなと思い始めたところに現れたRIVORA。これを定番としてあれこれそろえることに決めたのだ。
 素材が選び抜かれ、細部まで丁寧に考えられて作られている(made in Japan)ので、安くはない。でも、このクオリティとデザインのレベルで、同等の既存ブランド製品と比べると、とてもリーズナブルである。デザインの好みがRIVORAと同系統なら、迷わずこちらを選ぶ。
 東京では、表参道ヒルズ2階に8月にオープンしたばかりの「MINDTRIVE」で、買うことができる。
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# by hoshinotjp | 2010-10-27 23:18 | 身辺雑記
 サッカーという競技のよい点の一つは、誰でもどこでもできるということである。11人制のサッカーに限らず、フットサル、適当な人数での草サッカー、ブラインド・サッカー(盲人のサッカー)、聾唖者のサッカー、車椅子のサッカー、ボールのないエア・サッカー……。
 私がこのところ肩入れしているのが、ホームレス・サッカー。路上生活者の活動で、ビッグイシュー・ジャパンが支えている。じつはホームレスサッカーにはワールドカップまである。しかも毎年。2008年の南アフリカ大会の模様はドキュメンタリー映画にもなって、日本でも今年、公開された。
 日本からも過去2回、代表が出場している。その名も、「野武士ジャパン」。侍ジャパンなどより強そうではないか。最初が2004年のイエーテボリ大会(スウェーデン)、2回目が去年のミラノ大会。ミラノ大会の野武士の姿は、フジテレビの「NONFIX」で放映された。毎年は出場できないのは資金の問題である。
 そして現在、ホームレス・サッカーのプレーヤーたちは、来年秋のパリ大会目指して、練習を積んでいる。コーチは、サッカーを本格的にやっていた若い衆がボランティアで務め、ただいまディフェンスの猛特訓中である。ここふた月ほどで劇的に上達したと思ったのだが、今日はCITIグループのフットサル大会に参加して、まだまだであることを思い知らされた。
 私は夏にたまたま参加してから、荷担するようになった。最初は応援しているという気持ちから、サポートのつもりで顔を出したのだが、最近はあたかも自分がフットサルをしたいだけのような感じになっていて、どう関わったらよいのか思案していた。
 で、思案した結果、このままでいいや、と結論した。
 ホームレス・サッカーも、「路上文学賞」と同じじゃないかと思ったのである。要は、ピッチという同じ地平の上で、誰であろうが構わずサッカーを楽しんでいることが肝心なのだ、と。ピッチの上に立つ者たちの間に線引きはなく、ただサッカーをしたい人たちがいるだけ。
 そのような意識を持つことは、なかなか難しい。でも回を重ねて一緒にプレーしていると、いつの間にか、そんな心境になるのだ。野武士の連中が上達して嬉しいと私が感じるのは、同じサッカー仲間が上達しているからだ。
 さらに私が未来のビジョンとして妄想するのは、そのような線引きのないサッカーが、路上のあちこちで展開されている図である。まるでホコ天のように、ある特定の曜日の特定の時間に路上が開放され、サッカーをしたい者が集まって、そこここでサッカーをしているのだ。そんなストリート・サッカーが日常の光景になればいい。
 路上の開放は、今の私たちを縛っている目に見えない網から解放されることである。路上が公共の名のもとに自由に使えない社会は、いつも何者かの目に怯えて生きる社会である。日本は今、業界だったり世間だったり学校だったり、それぞれのコミュニティ内部の目に怯えてみんな生きている。路上を開放するということは、その視線の縛りを無効にすることだ。
 そんな気持ちと考えから、「フットボール・ゲリラ」という短編小説を書いた。来週発売予定の新しい文芸誌「In The City」(ビームス刊)に掲載されています。
 ホームレス・サッカーや野武士ジャパンに関心を持った方は、こちらのブログから担当者にご連絡ください。
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 ツイッターを本格的に使うようになって、ほぼ1年が過ぎた。ツイッターにしてからブログの更新が滞っているのは、世の大方の人と同様なのだが、どうも自分の脳が硬直していっているように感じるのは、気のせいではあるまい。長い文章を書かなくなると、脳が劣化していくように感じるのだ。ただひたすら反射神経ばかりが鍛えられるだけで。
 それでブログをメインに戻そうと思うのだけど(書きたいこともたくさんあるし)、時間がない。ツイッター以前には、ブログを書くための時間を作っていたが、その時間が、ツイッターを読んだり書いたりやりとりをする時間に費やされ、消えるのである。
 人にもよるのだろうけれど、私はプロの文章の書き手として、自分が体半分ぐらいツイッターに浸っているこの日常が、自分の仕事にとってあまりよくない影響を与えているように思う。明らかに、以前よりも、ものを考えたり書いたりする際の集中力が落ちた。ゆるく短い文章を書くのは気楽だけれど、体力も使わない。それを続けているうち、長い文章を書こうとすると、心身がついて行かないのである。それだけのテンションを上げるのに難儀しているのである。
 すぐに集中して考え、長々と言葉にまとめられるというのは、プロの文章書きが身に付けている、最低限の技術である。ツイッターに頼っているうち、その技術が劣化し、それを支える体力も低下した。
 そんなわけで、リハビリもかねて、ブログをメインに戻し、更新の頻度を以前ぐらいに上げていこうと思う(週に最低2回は書く、ぐらいのペース)。
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# by hoshinotjp | 2010-10-22 04:48
 最近のテーマ。「なぜ、男は上半身ハダカになりたがるのか?」
 夏休みにバルセロナに行ってきました。そこで異様に目についたのは、上半身ハダカの男たちでした。カタルーニャ人たちはむろん、夏休みゆえ訪れている大量のヨーロッパ人の観光客も、上半身ハダカ。
 確かにスペインはヨーロッパ内では南国です。日なたは暑い。でも、日本に比べれば(特に今年)、まだまだです。スペイン国内でも、40度を軽く超え「フライパン」と呼ばれるアンダルシアや、内陸性のマドリードに比較すると、バルセロナの気候は穏やか。なのにハダカマン率はバルセロナのほうが高い。
 どうしたことでしょう。抵抗の地カタルーニャでは、カウンターカルチャーが栄え、60-70年代にヌーディストの拠点となったりしたのだろうか?などと考えてしまいました。
 帰国後、友人が、「バルセロナはあまりにハダカになる人が多いので、罰金200ユーロという法律ができた」と教えてくれました。にもかかわらず、いまだにハダカマンだらけ。旅行客も、「ようし、この夏はバルセロナに行って脱ぐぞ!」と意気込んで来るのでしょうか?
 でも待てよ、よく考えると(よく考えなくても)、日本だってハダカマンだらけじゃないか! 私の属している文学業界でも、酔うとすぐハダカになる男たちというのが一定の割合で存在しています。昔は日本社会にもたくさんいたけれど(タモリや赤塚不二夫など、芸能人たちもよくそういう話をしていた)、もう絶滅寸前と思いきや、私より若い世代でもハダカマンは何人も現れ、威勢よくやってるそうです。
 さらによく考えると、私がメキシコにいた20代のころ、集まった日本人たちが酔って、何人かがハダカになっていました。侯孝賢の映画なんかを見ると、台湾ではランニングマンだらけです。タンクトップ、ではありません、下着のランニングシャツ。老いも若きもランニング一丁。高度成長期までの日本でも、割合よく見られた光景だと思います。
 手っ取り早くハダカマンを見たければ、サッカーの試合を見ればいい。ゴール裏の最もコアな地帯にハダカマンを見つけるのは、さほど難しくはないでしょう。でもやはりゴール裏のハダカマンの量は、ヨーロッパやラテンアメリカのサッカーのほうが断然多い。2002年に日本と韓国でワールドカップが開かれた際、イングランドのサポーターたちに、「日本ではハダカになる習慣がないので、公の場で服を脱いではいけません」と厳重な注意が言い渡されたのは有名な話です。
 いったい、この文化はどこから来ているのでしょう? 普遍的なのでしょうか、それともグローバル化したのでしょうか? 男子たるもの、何歳ごろにハダカになることを学んだのでしょう? 誰が教えるのでしょう? その衝動はいつ覚えるのでしょう? 私は教わったことはありません。母子家庭のせいでしょうか? 謎です。
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# by hoshinotjp | 2010-09-16 00:15 | 身辺雑記
 ライフリンク主催の「メメント・モリ」というイベントに行ってきた。20代30代の自殺率が増加を続けている現状を受け、何となく苦しさを抱えていたりする若い人たちが集まり、「死」をカジュアルに語り見つめられる場を作れたら、という思いで、ライフリンクの若者や大学生のサークルなどが立ち上げた企画だ。手探りなので、最初はぎこちないところもあったが、その思いは立ち見まで出るほどの会場中で共有されていたように感じた。
 ゲストとして語ったのは、女優の松田美由紀さん、二人組のミュージシャン「心音(しのん)」、桂城舞さん(「あのねの会」代表、自死遺児)。当初予定されていた内藤佐和子さん(難病東大生 著者/株式会社Yasasee代表取締役)は、体調を崩されて参加されなかったが、すばらしい文章を寄せてくださった。
 いろいろと心に響いた言葉はあったのだが、私に最も印象的だったのは、「主体的に動くことに関心がない/どうしたら主体的に動けるのかわからない若者に、どうしたらその楽しさを伝えることができるのか」という質問が、大学生から出たときだった。ライフリンクの清水康之さんが、家庭や学校で、同調し期待に応えることしか強いられてきていない人たちが、どうしたら主体的に生きればよいのかわからないのは、当然とも言える、と、現在の同調圧力が強烈な環境を説明しつつ、その中で何ができるのか、ゲストにひと言ずつ意見を求めた。
 桂城舞さんの答えに私は思わずうなずいた。「答えがないなら自分で探すべき。その方法としては、きらきらした大人のもとへ行け」。裏を返せば、「きらきらした大人」が身近にいないから、若い世代は主体的に生きる生き方を知らない、ということになる。つまり、「きらきらした大人」とは、主体的に生きている大人、である。子ども社会に登場する大人に、自分の意思を基準に生きている大人があまりにもいないのだ。モデルケースがないから、知らないだけなのだ。だったら、モデルケースを待たずに自分から探して、それに接すればいい。そして探せばモデルケースは存在している。桂城舞さんは実体験から、そう言っているのだ。
 女優やミュージシャンという、いわば自分の身を頼んで生きるゲストの方々には、そのようなモデルケース、あるいは自分の主体を認めてくれる大人が、存在していた。そのことが、身近な人の死を始めとする喪失体験を、正面から受け止める力を用意してくれた。私にはそのように見えた。特に、体張って生きている女優の生命エネルギーには圧倒された。これは松田美由紀さんのみならず、私が接したことのある女優さんに共通している。
 こういう話を若い人同士で気軽にできる場が、普通に存在すればいいと思う。そういうモデルケースに、このイベントはなっていたのではないだろうか。これが若い人たち自身の手作りであることに、私は楽観的な気分をもらった。
「メメント・モリ」はこの日が初回。第5回まで予定されています。
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# by hoshinotjp | 2010-08-13 01:26 | 社会
 ※この試みはすでに終了しました。
 昨年の秋から考え続けていた、「ツイッター小説」を思いきって始めてみることにしました。http://twitter.com/orex2 で展開中です。
 私も書きますが、読んでいる皆さんにも書いてもらう、というのが、その核心です。
 まずは私がツイッター上で導火線となる小説を書き始めます。私の新著『俺俺』の外伝という形をとっていますが、『俺俺』を読んでいなくても、わかる独立した小説です。(ちなみに、『俺俺』の冒頭5ページはこんな感じです。サイト内の「立ち読み」をクリックしてください)。
 皆さんには、適当なところで乱入して、小説を枝分かれさせていただきたいのです。つまり、私の文章の合間から、それぞれ小説を書いてみてほしいのです。
 枝分かれのさせ方は、思いつく限り、どんなやり方でも構いません。
 例えば、
・ちらっと出てきた通行人に焦点を当てて、その人の物語を書き始める。
・私が書いている主人公の、眠っている最中に見ている夢の内容を書く。
・まったく新たな登場人物を作って、私の書いている主人公を脇役とする。
・私の書いている話がいつの間にかパラレルワールドに入ってしまった作品を書く。
・私の書いているツイッター小説を読んでいる人物の物語を書く。
 などと、好き勝手でいいのです。
 これは遊びです。ですから、気楽に試してみてください。誰もケチはつけません。レベルがどうのと、気にする必要もありません。書いたことがあるかどうかの経験も関係ありません。面白そうだなと感じたり、読んでいるうちに思いついたり、空想が広がっていたり、時間つぶしに新種の遊びをしてみようかと思ったりしたら、とりあえず書いてみてください。
 私の希望としては、プロの小説家だろうがそうでなかろうが構わず入り乱れ、枝分かれした話からさらに枝分かれして、もう全体像が誰にもわからないぐらいに膨れあがれば楽しいな、と。
 とりあえず、最低限読めるように、ルールというか、仕様を考えました。参加の仕方は以下の通り。

1、まず、枝分かれさせる部分を、リツイート(RT)する。
2、続けて、自分の小説を展開する。1ツイートだけでもいいし、長く展開してもいい。
2、できれば、冒頭に続き番号を振る。
3、末尾に必ずハッシュタグ 「#orex2」をつける。「#」の前の半角空きを忘れないように。このタグを忘れると、この企画の一部としては読めなくなります。
 以下、私が自分の小説を枝分かれさせてみた例です。
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 参加者まで含めて全体を読むには、「#orex2」で検索してみてください(なお、ツイッターの不具合で、肝心の私の冒頭の書き出しが、ハッシュタグ検索では表示されません)。
 私も折に触れ、皆さんのツイート小説を読みます。そして場合によっては、枝分かれさせます。
 ともかく多くの方が参加してくれないと、成り立ちません。皆さんの関心が頼りです。ぜひ、アホな遊びにつきあってやるかという気持ちで、やっちゃってみてください。
 ぜひ、ご協力、ご参加をお待ちしています。ご意見、ご質問がありましたら、気軽にツイッター上で @hoshinot 宛てに尋ねてください(すぐにお返事できない場合も多々ありますが)。
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# by hoshinotjp | 2010-07-16 12:56 | 文学