少し前の話題だが、今年の野間文芸新人賞(受賞は村田沙耶香さん『ギンイロノウタ』)の選評で、角田光代さんがこう書いていた。
「気になったのは、(候補作のうち)多くの小説が、既にある「今とここ」を前提に書かれているように思えることだ。今とこことはつまり、現在であり、日本の都市である。書き手は、読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか。多くの小説が、「今とここ」という前提を無意識に引き受けて書かれたものに思えた。」
 これに対し、村田さんの小説は、「慎重に「今」を排している。つまりいつの時代でも、どこの場所でも、共有されうる強さが小説の芯としてある」として、角田さんは推している。
 同じような指摘を、選考委員の多和田葉子さん、松浦理英子さんも、表現を変えて行っているように、私には読めた。多和田さん松浦さんはまた、先行する小説をあまり読んでいないがゆえに、狂気を定型的にしか書けていないのではないか、と批判しているようだった。
 私が現在「文学作品」として流通している、比較的若い書き手の小説に感じるのも、これらお三方とまったく同じことである。書く意志において、時間的にも空間的にも、自分の置かれている立場の外側へ出ようとする意識が薄く、非常に閉塞的・閉鎖的な作品世界になっている。それが成り立つのは、読み手の側も同様の感覚を持っているからだ。つまり、自分にもわかるものだけを摂取したいという気持ちで、小説に向かっているように感じるからだ。
 その結果、小説は仲間内の物語と化していく。わかっていることだけを書き、読み合うことで、わからないこと、わからない存在を、無意識のうちに切り捨てていく。それは、今のこの社会そのものの姿である。それが「普通」の善人たちの姿なのである。
 この類の、身近な小さな生きづらさの物語を、内輪の意識で書いていく小説は、どちらかというと若い女性の書き手に多い。今回の野間新人賞の候補もそうだ。
 では、若手の男の書き手はどうかと見渡せば、ある種マニアックな、乱暴に言えばオタク的な作品が席巻している。アニメの世界にも通ずる、思想とテクノロジーとSFとロマン主義的な定型の物語が、互いに引用・補完し合うような形で展開されていくような小説群。きわめて現代的な姿をしているが、文学作品としてここに決定的に欠けているのは、詩である。どんな共同性からも漏れ落ちてしまうような言語である。逆に言うと、そのような言語で書かれていれば、オタク的な作品でも文学だと私は思う。
 詩を欠いた作品では、その世界でのみ通用する用語が氾濫している。小説を独立した世界として構築するには、その小説世界内部での用語が確立されている必要があるが、オタク的な小説で使われている用語は、あくまでも、マニアたちの間で流通し交換される内輪の言葉である(それがいかにテクノロジーのタームであっても、文脈によって内輪になる)。それは、角田さんが「読み手もまたその「今とここ」を共有していることを疑っていないのではないか」と批判した言葉と、ほとんど同じである。その小説を書いている者たちの「今とここ」を共有していないものは、排除されている。排除されている最も代表的な存在は、女性だろう。
 だがこの傾向はもはや、文学では主流となりつつある。今年はそれが特に顕著に感じられた。つまり、文学とは、身近な物語をわかる者同士で書き合うことなのだ。そういう閉じたコミュニティーのためのメディアなのだ。
 だとしたら、私の書いているものは、文学でも小説でもない。私が好み、必要として読んでいる作品群も、文学でも小説でもない。名を失った、言語更新機能を持つマイナーメディア、と呼ぶほかない。そして、それでいいと思っている。
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# by hoshinotjp | 2009-12-31 19:28 | 文学
 サッカー、ジェフ千葉と日本代表の監督だったオシムは、常々、「サッカーで起こることはすべて人生でも起こり得る」と語っていた。同じことが、アストル・ピアソラの音楽でも言えると思う。「ピアソラのタンゴを聴いて感じる感情は、人生で体験しうるすべての感情である」。
 それを実感できるピアソラのライブの名盤が発売された。『ミルバ&アストル・ピアソラ ライブ・イン・東京 1988』。必聴である。
 とにかくその白熱に圧倒される。演奏のテンションが高く、質も高く、なおかつ録音が素晴らしい。空気に音が濃厚にたっぷり詰まっているという感じなのだ。重低音も豊かでとても生々しく、文字通り「ライブ」の魅力に満ちている。
 ミルバがピアソラを歌ったCDでは、1984年のパリでのライブ「ブッフ・デュ・ノール」が定番だったが、今度の1988年の東京ライブ盤を聴いたら、「あれ、ミルバってこんなに上手かったんだ!」と驚いてしまった。格段に繊細かつドラマティックなのだ。ミルバの真価がついにこの演奏で極みに達したというべき歌唱で、間違いなくミルバ―ピアソラの完成形がここにある。定番の座は譲り渡されたと言えよう。
 冒頭に、きわめてとがった歌なしの曲「タンゲディアⅢ」が演奏された後、不穏な未来を告げるように「私はブエノスアイレスで死ぬだろう」と、「私の死へのバラード」が歌い出される。
 この冒頭2曲の並びのカッコよさと来たら!
 さらに一曲置いて、ミルバ―ピアソラで私が最も好きな「迷子の小鳥たち」が続く。このあたりでもうすっかり、心はぐずぐずである。
 そして6曲目の「ブエノスアイレスの夏」! 曲の出だしにやられた。ピアソラの演奏した「夏」の中でも、最高に洗練された「夏」ではないだろうか。
 その後に、「孤独の歳月」をミルバにドラマチックに歌われた後では、泣かずにいられようか。
 と、このように、ミルバの歌だけでなく、ピアソラの五重奏団のインストルメンタル曲演奏も素晴らしいのである。これが、2枚組で、1時間半の当日のコンサートを抜粋することなく完全に収録してある(ミルバの挨拶からアンコールまで!)のだから、これ以上望みようがない。
 ミルバはスペイン語で書かれたピアソラのタンゴの半分を、イタリア語で歌う。もとはスペイン移民が建設したブエノスアイレスという街は、19世紀から20世紀前半にイタリア系の移民によって繁栄を築いた。そのイタリア系移民たちの郷愁が、さまざまな要素と混血してラテンアメリカ化した音楽が、タンゴである。ミルバのイタリア語のタンゴは、そんなタンゴのルーツを濃く感じさせてくれて、胸に迫る。ミルバは濃い輪郭で、激しい情熱で、強いオーラで、ピアソラの世界を人生に変えてしまう。
 ラテンの人たちは、苦しい人生を、強い感情の振れ幅で乗り切る。生きることの苦しさは、内容は違えども、その度合にラテン世界も日本も違いはない。日本社会では、感情を滅することで乗り切ろうとする。だがそれは、自分が人間ではないかのような境地へ行き着きかねない。強い感情へ耐性をつければ、自分をもてあますことはあっても、エネルギーを枯渇させることは避け得る。私は、感情の拠点のひとつとして、ピアソラのタンゴを聴く。
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# by hoshinotjp | 2009-12-17 13:32 | お知らせ
 ブログ更新が少なくなっているのは、ツイッターをしているせいではなく、連載小説の終わりが近づいてきて、執筆で手一杯になっているから。そもそも、それほど関心があったわけでもないツイッターを始めたのも、部屋に籠もってパソコンの前にいるのに小説は書けないでいるという状態に耐えられず、ともかく気を紛らわせようと手を出してみた、という逃避行動の一環だった。だから、連載の終わっていない現在、依然として今ひとつ意義を見いだせないのに、何となく続けてしまう。
 このところ集中して考えているのは、そして現在書いている小説のテーマともなっているのは、依存、自尊感情(の低さ)、オタク的文化といったこと。日本がアメリカに次ぐポルノ超大国であることは、依存の度合いが著しい社会であることと無縁ではないだろう。依存がこれほど深刻なのは自尊感情が損なわれていく一方であることが大きな要因だろう。ポルノ超大国であることと優れたオタク文化の発祥地であることとは同じ根っこを持っているだろう。
 私も執筆に行き詰まるたび、ツイッターだけでなく、あれこれのネットにハマり、軽い依存状態に陥る。近代化された社会で生きるためには、誰もが程度の差はあれ依存症と無縁でいられないが、やはりこれでよいのだろうかという思いは強まるばかりである。
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# by hoshinotjp | 2009-12-07 12:17 | 社会
 最高裁判所こそ、裁判員制度を導入したらよいのではないか。
 マンション内で共産党のビラ配りをした僧侶が「住居侵入罪」に問われた裁判で、最高裁は有罪を確定させた。
 これがマクドナルドのクーポン券だったり銀行のティッシュだったりを配ったのだったら、絶対に有罪にならなかっただろう。「迷惑行為」ではあるかもしれないが、チラシを配ることが犯罪だと感じる人はものすごく少ないはずだ。
 私のマンションの郵便受けにも、政治や宗教のビラが入っていることはあるし、ビラを郵便受けに入れているところに出くわすこともしばしばだけれど、鬱陶しい、わずらわしいと思ってすぐ捨てるものの、「こいつ、犯罪を犯しやがって、許せん」などとは思わない。
 これが有罪になったのは、「共産党のビラ」だったからにほかならない。反政府的な言動を続ける人間たちを恫喝するために、法的な前例を作ることが目的だったと思われる。つまり、ここで警察や司法がやっていることは、チベットやウイグルで中国政府が行っていること、ビルマで軍事政権が行っていることと、「国家に楯突く言動は封殺する」という根本的な性質において違いがない。
 私は共産党には特にシンパシーを感じないが、こういう、民主化されていない政権が発するような判決を前例として残してしまったことは、民主国家として恥だと感じる。
 裁判員制度は、いわば事業仕分け作業に民間人も加わるようなものである。最高裁といえども、聖域にする必要はないのでは? 少なくとも、こんな恥ずべき判決を出す最高裁なら。
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# by hoshinotjp | 2009-11-30 22:53 | 政治
 世の中の連休とはまったく無関係に仕事をする。カレンダーと関係ないスケジュールが、いいのか悪いのか。
 twitterを本格的に始動させてから、ひと月ちょっとがたった。その特徴や魅力をまだいまひとつつかみかねてはいるが、何となく続いてもいる。今のところ、さまざまな情報のインデックス(ニュースの一行見出し、とか)としては有効だなあと感じているが、その程度。
 なぜ、いまひとつ魅力をつかみ損ねているのかと考えると、twitterがきわめて「話し言葉」のメディアだからではないかと思う。普段、饒舌だったり、しゃべるのが得意な人ほど、使いこなせるメディアだという気がするのだ。
 ネット上の双方向性のメディアは、「書く」という作業を使うけれど、実態は「話す」媒体だろう。ブログも本当はそうなのだが、私のように一方的に書いているぶんには、「書く」メディアである。私はいろいろな意味で書く人間で、書くかぎりはそれなりに饒舌になるが、話すのはあまり得意でない。
 twitterはブログと違って、徹底して話し言葉のメディアである。たとえ一人で勝手につぶやいていても、それは独白というか私語というか、一人での話し言葉だ。書き言葉で書いてみたが、どうにもそぐわない。
 ここで悩むのが、一人称の問題である。私は、書き言葉での一人称は「私」を使っているが、男がカジュアルな話し言葉で自分を「私」と称することはあまりない。すると、「ぼく」か「俺」あたりを選択することになるが、普段、書き言葉の人間として「私」と書いている者が、いかにもあざとく、素の自分ですよと言わんばかりに「ぼく」「俺」と書くことに、抵抗があるのだ(実際の私生活ではむろん「ぼく」や「俺」を普通に使っているけれど)。といって、IDを使って「hoshinotとしては○○だと思う」などと書くのも、鳥肌が立つ。例えばいとうせいこうさんのように、書き言葉の一人称を「俺」として定着させるとか、一人称を決して書かないとかすれば、問題は消えるだろうが、こういうとき、女性やヨーロッパの言語がうらやましく感じたりもする。
 その結果、どうにも中途半端だなあと居心地悪く感じながら、twitterでも「私」でつぶやいている。書き言葉と話し言葉の中間のような、収まりの悪い言葉で、ぼそっとつぶやいている。なので、ひと月ちょっとたってもまだ100に達していない。
 では、なぜ話し言葉で書くことに抵抗があるのかと考えると、何となくだが、それによって「キャラ」を決定されるような空気が存在するように思えるからだ。これは今の社会の中に強く働いている強制力で、それが「書く話し言葉」の世界で特に顕著に作用するように感じるのである。
「語り」であれば、芸である。それはコミュニケーションのきわめて洗練された形のひとつである。そういう「話し言葉」も、twitterではしばしば見られる。そういうものは読んでいても面白い。でも、しゃべりで決まるキャラが対人関係の評価基準という傾向は、むしろコミュニケーションとは逆方向を向いているように思う。別にtwitterが悪いのではなく、この社会に働いているその強制力が問題なのだけど。
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# by hoshinotjp | 2009-11-21 22:14 | 身辺雑記
 ツイッターをブログ形式で見られる、「twilog」なるものに登録しました。ツイッターの画面では見られない方は、こちらをご覧ください。過去の書き込みも、日付ごとに分類されてすべて読めます。最新の書き込みについては、ツイッターとは数時間のタイムラグはあるようですが。
http://twilog.org/hoshinot
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# by hoshinotjp | 2009-11-18 12:28 | お知らせ
 前々から思っている、大麻について。
 大麻はどの程度、体に毒なのか、と考えると、タバコとどっこいどっこいという気がする。肉体をむしばむという意味では、タバコのほうが毒性が強い面もあるかもしれない。中毒性もタバコのほうが強いだろう。
 精神に及ぼす影響、つまりその譫妄の程度はどのくらいか? これはアルコールとどっこいどっこいではないか? 大麻というと、麻薬的な心神喪失や幻覚が引き起こす暴力などがイメージされるが、アルコールだって強い酩酊状態にある場合は、記憶をなくし、人によっては相当な暴力を引き起こす。依存性の強さも、そう変わらない気がする。アルコール中毒ともなれば、廃人にいたることもある。
 要するに、「体に悪い」「健康を破壊する」という理由だけでは、本当は大麻だけを特別視するのは難しいような気がするのである。それなのに、大麻が特別に法律を作られてまで禁止されているのは、なぜなのだろうか?
 アルコールの場合、ストレスからの逃避として依存し、中毒にいたるにしても、そこで行き止まる。アルコールから始まって、さらに強力な薬物へ進むことは、一般的にはあまりない。
 大麻が問題となるのは、大麻の先に、依存性や精神破壊の度合いがずっと強烈な薬物が待ち受けていることだ。ストレスから大麻へ逃げると、そこでとどまらずに、覚醒剤などへ進むコースが、供給する側によって用意されているわけだ。そこにハマると、アル中よりも深刻な破壊にいたってしまう。それらの精神破壊が社会にとってなぜ脅威なのかは、アヘン戦争時の中国社会を参照すればわかるだろう。社会自体が、麻薬を供給する者たちへ依存することになるのだ。
 つまり大麻は、麻薬への入り口だから、厳しく禁止されていると考えるべきである。健康のためではない。健康のためだというのは、統治する側のレトリックでしかない。
 社会によっては、大麻が個人のたしなむ範囲で許容されている場合もあるが、依存症が百花繚乱となっている日本社会の現状を見る限り、私は禁止されてもやむを得ないと思う。今の日本社会は、より深刻な依存へ陥ることを、かなりの人たちが潜在的に欲求しているような社会なのだ。
 タバコも大麻もコカも、元はアメリカ大陸の先住民文化のものだった。それらは宗教的な儀式や加持祈祷のために、厳格な規律のもとで使用された。依存するための薬物ではなかった。それらを、依存をもたらす「麻薬」に変えたのは、人間中心の世界観を持つ近代主義である。近代の価値観は、その根本に依存症が組み込まれていると言ってよい。
 何かに依存をしないと成り立たない自由とは、一体、何なのだろう。
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# by hoshinotjp | 2009-11-16 23:34 | 社会
 平成天皇が即位して20年ということで、昨日、記者会見が行われたのだが、次のような言葉を述べていて、驚いた。
「私がむしろ心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということです。昭和の時代は非常に厳しい状況の下で始まりました。昭和3年、1928年、昭和天皇の即位の礼が行われる前に起こったのが、張作霖爆殺事件でしたし、3年後には満州事変が起こり、先の大戦に至るまでの道のりが始まりました。
 第一次世界大戦のベルダンの古戦場を訪れ、戦場の悲惨な光景に接して、平和の大切さを肝に銘じられた昭和天皇にとって、誠に不本意な歴史であったのではないかと察しております。
 昭和の六十有余年は、私どもに様々な教訓を与えてくれます。過去の歴史的事実を十分に知って、未来に備えることが大切と思います。」
 政治的な言動を一切してはならない天皇が、ぎりぎりのレトリックを駆使して、表現をしている。
 なぜ、昭和天皇のことを引き合いに出しているのか? 私が読んだ限りでは、このままでは、自分も昭和天皇のような立場に置かれるのではないか? 歴史が忘れられて繰り返されかねない現在、非常に不安である、と語っているように思える。
 学ぶべき過去の事件、すなわち繰り返してはいけない出来事として、天皇は、張作霖爆殺事件、満州事変を挙げている。これらの結果、昭和天皇は不本意な歴史を強いられた、としている。つまり、あのような戦争へつながる出来事が政治(軍部主導にせよ)によって起こされたが、それは天皇の名のもとで行われた、そういう過去の歴史的事実を忘れてはいけない、忘れたらまた同じことを繰り返し、天皇の旗印のもとで国民が戦争に駆り出されてしまう、そういう天皇として不本意な事態を自分としては危惧している、と、こう言っているのだと思う。
 日の丸、君が代についても、それらを刷り込む教育をしていると報告した米長邦雄に対し、「強制はよくない」と答えた天皇である。だが、現実は、国や自治体が強制している。それらは、天皇への尊敬の念を育てているかに見せて、じつは天皇を隠れ蓑にして為政者が国民を扇動するための下地を作っているだけだ、ということを、現天皇は不安に思っている。昭和天皇は、結局、戦争責任を不問に付されたが、もし、今度、そのような事態が起こった時には、天皇はなすすべもなく国威発揚の象徴に祭り上げられてしまうのであり、それは国民を戦争へ送り込むことであり、自分の望まないまったく不本意な悲劇であると、現天皇は感じているのではないか。政治的発言を禁じられている中で、ここまで言うのだから、その危機感は相当なものだろう。自分だけでなく、皇太子が天皇になった時にそんな時代が来ている可能性まで想像しての発言だと思う。
 この天皇は、オールド保守主義者という感じである。伝統、国民、その統合の象徴たる天皇、ということには忠実である。皇室に伝わる極秘の儀式については、きわめて熱心である。けれども、ファナティック(狂信的)なナショナリズムや、強硬な外交姿勢、武力保持については、これを嫌う。一方で、見事までに、天皇が政治や統治に関わらないよう、ふるまっている。
 右翼やタカ派の望む天皇と、現実の天皇とは、何と遠いのだろうと思う。
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# by hoshinotjp | 2009-11-12 23:31 | 社会
 民主党政権、長年の自民党政治の構造を変えるのは大変で、まだまだ時間がかかるからもう少し長期的に見ていこうと思う部分と、どう見てもこれはまずいんじゃないかと疑念を持たざるをえない部分と、さすがに政権が変わっただけのことはあると評価したい面がそれぞれ存在している。
 厚労省や普天間基地の問題は少し時間が必要かもしれないが、郵政に斎藤元大蔵事務次官を据えたのはまずかったと思う。亀井大臣は、小泉以前の、古い自民党が統治していた社会に日本を戻したいと思っている政治家で、根本的に民主党とは相容れない。官僚と一心同体でやってきた自民党政治に、疑問を持たない。にもかかわらず、民主党は亀井大臣の主張をそのまま飲まされている。亀井大臣一人をコントロールできないのでは、巨大な官僚機構などコントロールできないだろう。こうなると、もう少し長期的に見ていこうと思っても、時間が経てば経つほど官僚に取り込まれてしまい、かつての青島都知事のようになるのがオチなのかもしれないとも思う。
 政権の変化で評価できるのは、貧困・失業対策や自殺対策で、現場で活動を続けてきた、ノウハウを持つ者たちを積極的に登用していることである。貧困・失業対策では湯浅誠氏、自殺対策では11月6日に「自殺対策緊急戦略チーム」を内閣府に発足させ、ライフリンク代表の清水康之氏、本橋豊・秋田大医学部長を一員として迎えている。いずれも、自民党政権時代には、政治が何もしない中で、現場で対応策を実施し、地域の行政と連携することを模索してきた人々である。
 師走を前に、自殺対策、貧困対策は緊急事態にある。その窓口として、両者に役立つのが、ハローワーク。いずれも、一度はここに訪れる人が多いので、ここから、それぞれの人が抱えている問題をはっきりさせ、どこに相談したらよいのかアドバイスして、病気、借金、住まいの確保など、さらに専門的具体的な助言や援助が受けられるようにしていく、というもの。
 官僚ばかりではなく、このような人たちの情報と提言を活用していくことが求められている。
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# by hoshinotjp | 2009-11-11 17:54 | 政治
 秋葉原の無差別殺傷事件の加藤智大被告が、被害者に送った謝罪文(要旨)を東京新聞で読む。
 きわめてまじめで臆病な印象を抱く。物事にいい加減になれない性格なのではないか。だから気にしなくていいことも気にし、傷つきやすくなる。
 最も痛々しく感じたくだり。
「家族や友人を理不尽に奪われる苦痛を想像すると、私の唯一の居場所だったネット掲示板で、「荒らし行為」でその存在を消された時に感じたような、我を忘れる怒りがそれに近いのではないかと思います。もちろん比べられるものではありませんが、申し訳ないという思いがより強くなります。」
 加藤被告は、大切な人を奪われた感情を想像しようとして、本当に精一杯、自分が生涯で最も苦痛を感じた体験を思い起こそうとしたのだろう。そして、ネットで存在を否定された時の体験だと結論したのだろう。彼にはそれしか、人と接して苦痛を味わう場がなかったのだ。それほどまでに、「居場所」がなかったと認識していたのだ。奪われて苦痛を感じるような関係の人間が、彼にはいなかった。
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# by hoshinotjp | 2009-11-07 23:31 | 社会