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ブログ移転のお知らせ
 エキサイトブログの広告表示が厭になってきたため、本日より移転することにしました。新しいブログは以下のとおり。
http://hoshinot.asablo.jp/
 ツィッターを使うようになってから、更新が滞りがちですが、移転を機に、もう少し更新を増やしていきたいと思っています。
 今後とも、当日記をよろしくお願いします。
# by hoshinotjp | 2011-04-19 16:35 | お知らせ
 京大入試のカンニングについて。
 対応の難しい問題だと思う。
 法的には、カンニングは犯罪ではないと私は思う。犯罪だとする法解釈は、強引すぎる印象がある。だから、逮捕もおかしいし、さすがに起訴はされないと思うけれど、逮捕後に被害届を出す京大以外の大学の姿勢もおかしい。私は、カンニング者が特定された時点で、警察は手を引くべきだったと感じている。その後の事情の調査は大学側に任せれば十分で、処分や手口の詳細は、大学がしかるべき時期に会見で発表すればよい。その人の情報を警察がメディアに広報するのは、どう考えても行きすぎだ。そしてだいそれた犯罪であるかのように報じるメディア。もはやバッシングと化している。であるがゆえに、カニングした人の精神的なケアも必要だが、それを逮捕の口実にするのもおかしい(そのような報道を読んだ)。
 では、特定されるまでの過程はどう判断すればよいのだろう? どの立場に立つかで、この判断がまったく違ってくる。
 発覚して公に知られた以上は、カンニングを犯した者が特定され、合格を取り消されなければならない。これができないと、カンニングはやった者勝ちとなり、入試は崩壊する。
 今回は、プロバイダが持つ個人情報があればその特定が容易となるため、大学側は警察に訴えた。私は、大学側の努力だけで今回のカンニング者を特定するのは不可能に近かったと思う。だから、プロバイダに個人情報を求めるのはやむを得なかった。そして、現状のルールでは、それは警察にしかできない。
 もちろん、警察が介入すればプロバイダが持つ個人情報が提供される、ということ自体に、疑問は大いに感じている。だから権限の歯止めが必要なのだけど、それが曖昧で、ケースバイケースの形をとりながら、前例を作る形で警察の権限が拡大しているのが現状だ。
 ネットの時代になって匿名性が格段に増している以上、その匿名性を利用した不正に対しては、その不正で被害・損失を被った側に不正を犯した者の個人情報が明かされるのは原則的にはやむをえないと、私は思っている。そのためのルールが必要だが、存在しないから、いたずらに警察を頼ることになる。その中には、そうして明かされた個人情報を、別の目的に使用するのは厳しく制限する事項も含まれるべきである。この兼ね合いが難しいことが、個人情報の取扱をめぐって混乱し続ける原因だろう。モラルを明文化しろ、と言っているようなものなのだから、解決のつく話ではない。
 一方で、今日あたりから問題視され始めているのが、「大学が入試をきちんと監督していなかったのではないか?」という点である。今回のカンニングの状況を始め、当然、検証されなければならないとは思う。
 だが、この点については、小中学校で問題化している、「教師が堕落しているのか、親がモンスター化しているのか」という議論と似たものを感じる。どちらも、間違ってはいない。どちらかに責任転嫁することはできないと思うのだ。カンニングをする側が悪い一方で、大学の意識が現代についていっておらず、対策が後手に回っているようにも感じるのだ。
 今の大学の教員は、小中学校ほどではないにしても、大学生の質の変化により、以前では考えられないほど学務に忙殺されている。親への対応を強いられる度合いも、格段に増している。大学の教員は、学生への教育を担うだけでなく、研究というのも大きな仕事である。だが、こんなに忙殺されて、まともな研究などできるのだろうか、と思わざるをえない。研究の質の低下は、日本社会の知的な蓄積の低下であり、やがてはあらゆる分野でのレベルの低下を招く。日本社会の豊かさは、この方面に負うてきたところが大きいのだから、これが低下することは、社会の劣化でしかない。入試だけでも、年に複数回行われるAO入試、推薦入試、本番の入試、それぞれに試験作成や面接実施、判定会議と、大変な労力を割かれている。大学は今では年中入試を行っている。結構限界に近い状態だと思うのだ。なので、「大学がいい加減なのであって、もっと試験監督を増やしてしっかりやれ」と言うのは、現場の実情を知らない言い分かもしれないとも思う。これもバッシングと化しそうで、嫌な気分である。
 加えて、このような不正に、「監督強化」というだけでいいのか、そのあたりも本当は疑問を感じる。それでは、テロリストがいるのだから空港での監視強化は当たり前、という議論と同じではないか。
 大学が後手に回ったと感じるのは、一般的に、日本の大学がITに弱すぎる点である。教育を見ても、学生に、これから起訴として必要なITの知識、スキル、考え方を教えることなど、まるでできていない。全般として、大学の教員のうちの権限を持っている層は、ITを理解しないどころか、敵視する傾向がある(特に文系)。一部の若い層だけが、ものすごく詳しい。この格差とアンバランスが、大学をして今回の不正をワケのわからぬ恐怖として感じさせ、パニックを起こさせた要因の一つではないか。
# by hoshinotjp | 2011-03-04 12:49 | 社会
 作家、学者、評論家、ジャーナリストといった言論人がメジャーになったときに陥る罠がある。
 言論人がメジャーになるということは、その発言を多くの人が注視していて一定の影響を受けるということであり、いわば、一人の人物が一個のメディアとなることを意味する。そして現在ではインターネットやデジタル技術を使えば、文字通り一個人がメディアとなれるわけだから、メジャーな位置にいる言論人は、小さなマスメディアである。
 誰もが個人としてそのままメディアになれる時代であるとはいえ、メジャーな言論人と、無名の一般人ではその規模が違う。メジャーな言論人は、その発言力において「マス」メディアであり、ちょっとした権力を手にしたと言える。そして、その権力性が、罠なのである。
 多くの言論人は、自身が言論活動を始めた無名な時代には、その発言が強いマイナー性を帯びていたはずだ。人の目に触れない現実や情報や考え方を、何とか人の目に触れさせようともがいただろう。無力だからこそ、言葉にしようとしたのだろう。
 罠とは、メジャーになって、自分の発言に耳を傾ける人が増えたにもかかわらず、マイナー意識をそのまま持って発言するケースである。マイナー意識にはどうしても、被害者意識に起因する攻撃性が含まれることが避けられない。顧みられないマイナーな立場の者がその存在を主張するには、ある種暴力的な力を借りないと、アピールできないからだ。その力を借りないと、依然として無視され存在はないままだからだ。だから私は、マイナーな言論に含まれるある種の攻撃性は、過剰にならない限り、やむをえないと感じている。
 だが、メジャーな位置を確保した言論人が、依然として過剰なマイナー意識にかられて、攻撃性を含んだ言葉を繰り出してたら、どうなるか? その人にはすでに、個人メディアとして発言力があり、権力がある。その人の攻撃性には、言論に耳をかたむける者を煽動するいかがわしさが生じるだけでなく、弱者を抑圧する結果になることもある。だが、自分がマイナーの側にいるという意識をいまだに持っているものだから、自分の言論の権力と抑圧性に気づかない。本人は、かつてと変わらない姿勢を続けているつもりなのに、外から見ると、「あの人は変わった。偉くなったら抑圧的になった」と映ったりする。
 さらに、言論業界の「業界人」の一員に迎えられることによって、それまで自分がその立場にいたはずのマイナーな人々から離脱してしまうケースもある。自分のメジャー性を確保し、さらにそれを拡大することが目的となってしまい、当初の、人の目に触れない現実や言葉を伝えようという目的と、入れ替ってしまう。「状況を変えるために発言する」が、「力を得ることが変えることだ」となり、得た力を失わないことにばかりかまけてしまう。その結果言論は、自分のメジャー性を見せつけ、権力を維持することに使われる。当初の意志をすっかり裏切ってしまうのである。
 こうなると、その言論がどれほど過激で影響力を持っていても、それは現状を維持することにしか加担しなくなる。言葉の見せかけはマイナーなようでいても、作りだす文脈がメジャーだからだ。言っている内容は悪くないのに、どうもあの人は信用できない、という感じを抱いたりすることがあるのも、そういうことだ。言論が本当にメジャーの暴力を打ち破り、マイナーの存在を肯定させられるようになるのは、言葉面ではなく、文脈と心根の問題なのだ。
 言論の業界にいると、そんな人をいろいろと見ることになる。それはそれで悲しいことだ。こないだの東京マラソンに喩えるなら、才能はあるのに「のうのうと飯を食っている」実業団のランナーを見るような気持ちかもしれない。言論人は、川内選手のようであり続けなければいけない。
# by hoshinotjp | 2011-03-01 11:38 | 社会
 オープンしたばかりの神奈川芸術劇場で上演されている、チェルフィッチュの『ゾウガメのソニックライフ』を見た。心地のよい芝居だった。風通しがよくて、そこにいることが気持ちよかった。万人にアクセスしやすい作品なのかはわからないが、誰をも拒まない演劇だと思う。
 妙な言い方だけど、私が作品を見ながら連想し続けていたのは、小学5年生(4年生や6年生でもいいのだけど)の昼休みの光景だった。誰かしらが動いていたりしゃべっていたりして、一時も瞬間が止まることはない感じで、しかも舞台上の5人は等価に存在しているのだ。すごくなじみがある感覚だった。
 と、こう書いてもどんな作品かはわからないだろう。私もこれを言語化する術はない。言語化できないことを、芝居ではするわけだから。
 そもそも、私は芝居を語る言葉を持たない。なぜなら、これまでほとんど演劇を見てこなかったからだ。見てこなかった理由はいろいろあるが、その一つに、演劇特有の、演じる側と観客の強い一体感に、疎外を感じることが多かったというのがある。閉じた空間で生身の人間が演じるのを見るのだから、祭りに参加するようなもので、演技者と観客が一体感を得るのは当然だしそこに意義もあるのだけど、それがある閾値を超えると、閉鎖的な宗教儀式の領域に入り、その世界のやり方と歴史を共有しない者は排除されるような雰囲気になる。私はその共同性の強さが苦手だった。
 でも去年、ジエン社の『クセナキスキス』を見たら、私のそのアレルギーを和らげてくれるような作品だった(3月に行われるジエン社の新作の上演にも行く)。そしてこの『ゾウガメのソニックライフ』で、これからはもう芝居は普通に見に行っていいな、という気になった。まあ現実的には時間がなくて足を運ぶことがすごく増えることはないだろうけれど、心理的な規制は消えてしまった。
 つまり、私はこう思ったのだ。自分はずっとこのまま観劇の素人として、空間全体を楽しむ芝居に、ときどき身をさらしに行こうと。自分の体にいい気がするのだ。端的に、毎日言語を扱う仕事をしていると、自分は脳でしか存在していない、という気分に陥ることが多く、それを解放してくれる芸術なのだ。だから、言語化する気がない。もちろん、いろいろ考えるのだけど、それを言葉に変えて表明するのはまた別の行為。
 私は岡田利規さんの作品については小説から入っており、どうしても小説のほうから見てしまうけれど、それはそれでいいかなと。そしてその小説にも、演劇作品にも、さらには人としてのスタンスにも、大変共感している。一般に人が前提にしているような個人の区切り・輪郭は、本当にそれだけなのか? それはもっと曖昧で揺らぎのあるものかもしれないし、だとしたら、人と接しうる可能性はもっとずっと広いのかもしれない。ということを岡田さんの作品に触れるといつも思う。それを、生身の人間が演じている芝居で感じることができたのは、驚きだった。小説だと話者の語りのレトリックでそれを表現できるが、演劇では演じる役者が生身の一個人であってそれが制限になりそうなものなのに、その制限が逆に一個人の輪郭(と思われているもの)を破ってしまうという事態を目の前で見て、とても心地よかったのだ。
 語る術を持たないと言って語っているが……。でもまとまりをつけて書くことを放棄して書いたので、とりとめがない。
# by hoshinotjp | 2011-02-07 23:41 | 文学
 ツイッターを本格的に使うようになってから1年ちょっと過ぎたが、次第に意義の感じ方が変わってきた。
 去年の前半ぐらいまでは、大手のメディアに流通しない・大きく取り上げられないような情報を、さまざまな人の解釈とともに知ることができるのが、最大のメリットだと思っていた。さらに、その速報性、驚異的なスピードでの伝播力、いずれも、情報独占のヒエラルキーを崩す破壊力であり、その点にも魅せられていた。
 だが、昨年の秋あたりから、情報発信の独占というヒエラルキーが崩されていることに気づき始めた。
 ちょうど1年前(1月12日)、ハイチで大地震が起こった。ツイッターを通じて、報道陣に限らず、一般の人たちから次々に世界中へ情報が流され、ハイチ出身の著名人らが募金を呼びかけ、たくさんの支援があったことは、記憶に新しい(かな?)。ツイッター上では、クリックすると1円寄付されるというサイトが、このときに登場した(ように記憶している)。
 そのとき私が夢想したのは、被災者たちのナマの声がもしツイッターを通じて届いたら、ということだった。YouTubeでもUstreamでもいいのだけど、やはりツイッターのナマの声ほど持続的でリアルでメッセージとして伝わりやすいものはない。
「ライフリンク」の清水さんはよく、「声なき声に耳を傾けたい」と言っているが、私が最近感じているのは、この「声なき声」がツイッターを通して聞こえるようになってきている、ということだ。これまでその存在が一般社会の目に触れることもあまりなく、存在を示したところでちまたの視界に入ってこないような、マイナーな位置にいる人たちが、ツイッターで自分の日常をぽつぽつとつぶやいているのである。
 そんな人のリツイートなどをたどっていくと、何とさまざまなマイナー性を持った人たちが、つぶやき始めていることか。セクシュアル・マイノリティ、路上生活者、失業者、難病者、外国籍の人、犯罪被害者、その他書き上げきれないほど。その人たちが、それぞれの日常の喜怒哀楽、日々考えざるを得ないこと、人生観など、当人にとっては普通のことが語られていく。身近にいるのに私が知らなかった何らかの当事者、声を出しても聞き取られることのなかった当事者の声が、ツイッターだとどれも同じ大きさの声として聞こえてくる。目に入ってくる。
 私の持論では、誰もが何かしらの当事者である。どんなに平凡だと自分で思っている人でも、ごく普通だと思っている人でも、何かしらのマイナー性は持っていて、つまりそれを他人と共有するのが難しい箇所を何かしら持って、生きている。ただ、マイナー性の部分が小さいので、日ごろは気にしないでいられるのだ。
 マイナー性の部分が大きいと、それを見ないで日常を過ごすのは難しくなる。生きるうえで、マイナー性を、共有されないなりに理解される必要が生じてくる。そのための努力は、それはもう大変なエネルギーと労力を要する。なぜなら、声はなかなか届かず、聞かれないからだ。
 ツイッターは、この壁を突破しうる、強力なメディアだと私は思うのだ。
 こんなにたくさんの、さまざまな当事者の日常を語る声を、毎日、いっぺんに読み続けるなんて、初めての体験である。正直なところ、私の意識の奥のほうで、世界観が変わりつつある。自分が生きている社会のイメージが、具体的に共存しているさまざまな人の日常を知ることで、激変した。マイナー性を抱えるいろいろな当事者の、日常を語る声を読むというのは、その人たちの訴えや主張を聞く以上に、こちらの意識を変えるだろう。それぞれの立場の人にとっての「普通」や「日常」を知ることこそが、共有しきれないなりに理解することの鍵だと思う。
 もちろん、ツイッターは端緒にすぎない。それでわかった気になるような安易さは避けねばならない。それでも、隣人や友人であるかのように、その声に親しみを持って接し続けるというのは、画期的なことだと思うのだ。
 ただし、これを毎日たくさん読んでいると、いつの間にか仕事の時間がなくなっていたりする。それで、最近はほどほどに抑えるようにしているが。
# by hoshinotjp | 2011-01-12 23:55 | 社会