2009年 02月 28日
2009年2月28日(土) |
今年2度目の訪日中である岡村淳さんの新作『さまよう人とともに マルゴット神父にきく』を、松原教会での上映会で見る。マルゴット神父は『あもーる あもれいら』の舞台であるアモレイラ保育園を設立した方。ベルギーで生まれ、カトリックの神父として日本に赴任、20年の布教活動ののちブラジルに渡ってアモレイラの町で活動、晩年の世紀の変わり目のあたりにはまた日本でデカセギの日系ブラジル人支援に奔走、ブラジルで生涯を終えた。岡村さんはマルゴット神父のインタビューを90年代後半に行っていて、このたび『あもーる あもれいら』3部作制作に当たって、メタレベル的な作品としてまとめたのである。なので、『あもーる あもれいら』と合わせて見ると、とても効果がある。
マルゴット神父の言葉を聞きながら私が思い出したのは、スペインの映画監督ルイス・ブニュエルの言葉である。フィルムの寿命はたかだか50年程度、人間の世がまともになるなら自分の作品など消えてなくなっても構わない。私の記憶がアレンジしていると思うが、確かそんな言葉だったと思う。稀代の倫理的嘘つきであったブニュエルのこの言葉は、半分は嘘だと思うが、半分は本気も本気だったと思う。マルゴット神父にとってのカトリックは、まさに、「人間の世がまともになるならカトリックなど消えても構わない」というようなものであったのではないかと、私には思えた。ここ何年も、私は自分自身は信仰を持たずとも、人間にとっての宗教の必要性を感じてずっと考えてきて、どう理解してよいのかいまだに解答を得られずに来ているが、マルゴット神父の言葉はその疑問に対するとても納得のできる答えであるような気がした。宗教を、権威という概念から遠く離れた地平で実践している希有な聖職者だと思う。その人がアモレイラの保育園を作り、その活動を岡村さんが記録していることに、豊かなハーモニーが響くのを聴いた。
続いて上映会では『あもーる あもれいら』の第一部を上映。私は約1年半ぶりの再見であるが、やはり『あもれいら』シリーズへの思い入れは特別で、映像が始まるなり自分の体内が柔らかく解きほぐされていくのがわかる。そして、新たにつけられた副題が『第1部 イニシエーション』と現れたのには鳥肌が立った。この言葉の力にガツンとやられた。『あもれいら』の世界を第2部まで見ている私には、入園初日からひと月ほどの間を描いた第1部が、入園した子どもたちにとってまさに園内社会へ入るためのイニシエーションの日々であることを痛感したし(「洗礼」という言葉では足りない)、何よりも、この言葉が日本社会の中で持つ「色」を変えてしまう命名だと思ったのである。
ご承知のとおり、日本でイニシエーションという言葉がメジャーになったのは、オウム真理教の事件を通じてである。このため、「イニシエーション」には殺人集団の恐ろしい洗脳儀式であるかのようなイメージが染みついた。現に、岡村さんによると、この副題はオウムを思わせるからやめたほうがいいという意見もあったという。けれど私には、通過儀礼を意味するこの言葉の真意こそが『あもれいら』第1部にふさわしいと思われたし、この作品には、「イニシエーション」という言葉に染みついた「殺人集団の恐ろしい洗脳儀式」というイメージを払拭する力があると確信した。つまり、オウム真理教の事件が日本社会に与えたダメージと、日本社会がオウム真理教の事件を封印して見えなくさせようとする力、その二つの呪いを解く力が『あもれいら』にはあって、「イニシエーション」という言葉は呪いを解く呪文のようにさえ感じるのである。この呪文を「詩」と呼んでもよい。
私たちは、まともに現実に対峙するために、『あもーる あもれいら』シリーズを、自らの「イニシエーション」として、通過する必要がある。
マルゴット神父の言葉を聞きながら私が思い出したのは、スペインの映画監督ルイス・ブニュエルの言葉である。フィルムの寿命はたかだか50年程度、人間の世がまともになるなら自分の作品など消えてなくなっても構わない。私の記憶がアレンジしていると思うが、確かそんな言葉だったと思う。稀代の倫理的嘘つきであったブニュエルのこの言葉は、半分は嘘だと思うが、半分は本気も本気だったと思う。マルゴット神父にとってのカトリックは、まさに、「人間の世がまともになるならカトリックなど消えても構わない」というようなものであったのではないかと、私には思えた。ここ何年も、私は自分自身は信仰を持たずとも、人間にとっての宗教の必要性を感じてずっと考えてきて、どう理解してよいのかいまだに解答を得られずに来ているが、マルゴット神父の言葉はその疑問に対するとても納得のできる答えであるような気がした。宗教を、権威という概念から遠く離れた地平で実践している希有な聖職者だと思う。その人がアモレイラの保育園を作り、その活動を岡村さんが記録していることに、豊かなハーモニーが響くのを聴いた。
続いて上映会では『あもーる あもれいら』の第一部を上映。私は約1年半ぶりの再見であるが、やはり『あもれいら』シリーズへの思い入れは特別で、映像が始まるなり自分の体内が柔らかく解きほぐされていくのがわかる。そして、新たにつけられた副題が『第1部 イニシエーション』と現れたのには鳥肌が立った。この言葉の力にガツンとやられた。『あもれいら』の世界を第2部まで見ている私には、入園初日からひと月ほどの間を描いた第1部が、入園した子どもたちにとってまさに園内社会へ入るためのイニシエーションの日々であることを痛感したし(「洗礼」という言葉では足りない)、何よりも、この言葉が日本社会の中で持つ「色」を変えてしまう命名だと思ったのである。
ご承知のとおり、日本でイニシエーションという言葉がメジャーになったのは、オウム真理教の事件を通じてである。このため、「イニシエーション」には殺人集団の恐ろしい洗脳儀式であるかのようなイメージが染みついた。現に、岡村さんによると、この副題はオウムを思わせるからやめたほうがいいという意見もあったという。けれど私には、通過儀礼を意味するこの言葉の真意こそが『あもれいら』第1部にふさわしいと思われたし、この作品には、「イニシエーション」という言葉に染みついた「殺人集団の恐ろしい洗脳儀式」というイメージを払拭する力があると確信した。つまり、オウム真理教の事件が日本社会に与えたダメージと、日本社会がオウム真理教の事件を封印して見えなくさせようとする力、その二つの呪いを解く力が『あもれいら』にはあって、「イニシエーション」という言葉は呪いを解く呪文のようにさえ感じるのである。この呪文を「詩」と呼んでもよい。
私たちは、まともに現実に対峙するために、『あもーる あもれいら』シリーズを、自らの「イニシエーション」として、通過する必要がある。
by hoshinotjp
| 2009-02-28 23:28
| 映画

