2009年 07月 20日
2009年7月20日(月) |
実家の本を整理していたら、半村良の「岬一郎の抵抗」全3巻(集英社文庫)が出てきた。学生時代は友人の影響で半村良を愛読していたのだが、この日本SF大賞を取った作品は、買ったまま未読だった。当時は金がなくて単行本では買えず、文庫化を待っていて、文庫になったときには社会人だったので読む暇がなかったのだ。
改めてカバーのあらすじを見たら、すごく面白そうではないか。いそいそと読み始めたらもう止まらない。これは傑作である。しかも、今この時代に、この年齢になって自分もいくつか小説を書いたあとで、読んでよかった。たぶん、出た当時の若造の私だったら見えなかったことが書かれている。
以下、ネタバレ。
この小説はまず、権力論である。国家とは、暴力を独占した組織が自らを正当化したものである、という構造が、つぶさに展開されている。そこにメディアや市井の民がいかに迎合させられていくのか、また望んで迎合していくのか、戦慄を覚えるほどリアルに描かれる。半村良という作家が、巨大な権力の動きから、ご近所の人間関係の優劣にいたるまで、力関係にいかに敏感な作家だったかがよくわかる。
もう1つの柱は、では、権力を回避する生き方はあり得るのか?ということだ。岬一郎はきわめて弱い存在だった。他人の悪意や憎悪に過敏なあまり、目立たないように努め、かえっていじめられてしまうような子どもだった。その結果、いたっておとなしく、他人と波風を立てない善良な大人に育つ。(この作品が書かれた1980年代後半は、学校でのいじめが激化し、それによって自殺する子どもが次々と現れた時代である。現在がその過激な延長にあることは言うまでもない。)
その岬一郎の、他人の悪意に敏感である能力が次第に発達し、ついには強力な超能力を持つに至る。人の心を読める、人の心を操れる、多くの病を一瞬に治せる、自在にものも動かせる、念じれば人をも殺せる。つまり、国家を軽く上回る権力を持ちうる力を、手にしてしまったのだ。
だが、岬一郎はその力を行使しようとしない。権力関係を作りたくないからだ。その関係こそが暴力や悪意や憎悪を産んでいくことを、その対象となった体験で思い知っているためだ。
岬一郎はとてつもない力を持ちながら、社会に介入しようとしない。社会とは、力関係の集積である以上、たとえ善を施すためであれ、介入したとたん、自分も力関係に巻き込まれるからだ。そして巻き込まれれば、圧倒的な能力を持つ岬一郎は、いやがおうでも絶対的な優者、強者となることを免れられない。なお弱者でいることは、社会が許さないのだ。だから岬一郎は社会から身を引く。隠居のように、社会を降りた人間として生きようとする。
それでも国家は、自分より潜在的に力のある個人の存在を許さない。何もしなくても、その潜在力があることが、国家の存在を否定するのだ。だから、消滅させようとする。
降りること、既得権を放棄すること、自分では自覚できない所与の権力を意識し捨てること、それはとてつもない苦痛を伴うが、そうしない限り人間は不信をベースに生きるしかないこと、不信は暴力を必要とすること。それらは私がずっと自分の小説の中で追求してきたことである。それらが、すでに20年も前にこんな素晴らしい小説として書かれていたのだと知り、自分ももっとこのテーマにこだわり続けてよいのだ、そのことには意味があるのだと、大いに励まされた。
最後の場面で、岬一郎が連行され、自衛隊の戦車と対決する場所が、富士山麓であることも、その数年後のオウム真理教事件を思うと、背筋の寒くなるようなリアリティをもたらす。
改めてカバーのあらすじを見たら、すごく面白そうではないか。いそいそと読み始めたらもう止まらない。これは傑作である。しかも、今この時代に、この年齢になって自分もいくつか小説を書いたあとで、読んでよかった。たぶん、出た当時の若造の私だったら見えなかったことが書かれている。
以下、ネタバレ。
この小説はまず、権力論である。国家とは、暴力を独占した組織が自らを正当化したものである、という構造が、つぶさに展開されている。そこにメディアや市井の民がいかに迎合させられていくのか、また望んで迎合していくのか、戦慄を覚えるほどリアルに描かれる。半村良という作家が、巨大な権力の動きから、ご近所の人間関係の優劣にいたるまで、力関係にいかに敏感な作家だったかがよくわかる。
もう1つの柱は、では、権力を回避する生き方はあり得るのか?ということだ。岬一郎はきわめて弱い存在だった。他人の悪意や憎悪に過敏なあまり、目立たないように努め、かえっていじめられてしまうような子どもだった。その結果、いたっておとなしく、他人と波風を立てない善良な大人に育つ。(この作品が書かれた1980年代後半は、学校でのいじめが激化し、それによって自殺する子どもが次々と現れた時代である。現在がその過激な延長にあることは言うまでもない。)
その岬一郎の、他人の悪意に敏感である能力が次第に発達し、ついには強力な超能力を持つに至る。人の心を読める、人の心を操れる、多くの病を一瞬に治せる、自在にものも動かせる、念じれば人をも殺せる。つまり、国家を軽く上回る権力を持ちうる力を、手にしてしまったのだ。
だが、岬一郎はその力を行使しようとしない。権力関係を作りたくないからだ。その関係こそが暴力や悪意や憎悪を産んでいくことを、その対象となった体験で思い知っているためだ。
岬一郎はとてつもない力を持ちながら、社会に介入しようとしない。社会とは、力関係の集積である以上、たとえ善を施すためであれ、介入したとたん、自分も力関係に巻き込まれるからだ。そして巻き込まれれば、圧倒的な能力を持つ岬一郎は、いやがおうでも絶対的な優者、強者となることを免れられない。なお弱者でいることは、社会が許さないのだ。だから岬一郎は社会から身を引く。隠居のように、社会を降りた人間として生きようとする。
それでも国家は、自分より潜在的に力のある個人の存在を許さない。何もしなくても、その潜在力があることが、国家の存在を否定するのだ。だから、消滅させようとする。
降りること、既得権を放棄すること、自分では自覚できない所与の権力を意識し捨てること、それはとてつもない苦痛を伴うが、そうしない限り人間は不信をベースに生きるしかないこと、不信は暴力を必要とすること。それらは私がずっと自分の小説の中で追求してきたことである。それらが、すでに20年も前にこんな素晴らしい小説として書かれていたのだと知り、自分ももっとこのテーマにこだわり続けてよいのだ、そのことには意味があるのだと、大いに励まされた。
最後の場面で、岬一郎が連行され、自衛隊の戦車と対決する場所が、富士山麓であることも、その数年後のオウム真理教事件を思うと、背筋の寒くなるようなリアリティをもたらす。
by hoshinotjp
| 2009-07-20 23:47
| 文学