2010年 07月 05日
2010年7月5日(月) |
『俺俺』 収録外のまえがき その3「わかりやすさ、について」
21世紀に入ったころから、文学にはいくつかのプレッシャーがかかるようになっています。その一つは、「わかりやすくしろ」「読みやすくしろ」。
いたずらに難解だったり、これがわかるわれわれ、みたいな特権意識を持つ読者のための作品であったりすることには、私もうんざりです。けれど、読み手のほうは歩み寄ろうともせず、「自分たちにわかるように書いてくれ」という傾向には、唖然とするほかありません。基本的に文学とは、いや文学に限りません、芸術作品というのは、わからないから作る(書く、演じる)のであり、わからないから読む(見る、聴く、触る)のです。わかっていることを確認したり、自分の常識を疑わずに、自分に合わせて書かれた作品で納得するのであれば、それは引き籠もりです。スペインを旅行したいけれど、あの国のことはわからないから、スペインのほうからこっちに来てくれ、というようなものです。それが無理なので、国内のスペイン村へ行って、「自分はスペインがわかった」と思い、「スペイン行ってきたよ、よかったよ」と吹聴するようなものです。あるいは、隣駅まで歩いていくのがしんどいから、車で迎えに来てくれ、あるいは籠でも用意してくれ、と要求しているうちに、足が萎えてしまうようなものです。サッカーで言えば、俺はディフェンスもしないし、スペースにも走らないからな、俺に完璧なシュートを撃てるやさしいパスを出してくれ、と要求しているようなものです。こんな選手たちのいるチームはどうなるでしょうか?
もちろん、わかりやすくできた読み物も必要です。それぞれの役割があります。文学は、書き手にも読み手にも考えさせることが役割です。文学が提出するのは、言葉にならないある感覚や空気や感触です。それを感じてから、考えるのです。
文学作品を読むのは、一筋縄ではいきません。労力のかかる作業です。でも、その労力こそが、文学から得られる果実なのです。文学とは経験です。経験値をあげるトレーニングにして、出来事なのです。
しかし、世は、「ひとことで言うとどういうことなのか?」という要求ばかりを苛烈に突きつけます。政治も、メディアも、小説も、音楽も、演劇も、美術も。人々は、140字以内で、あっという間に飲み込める言葉しか、受け付けられなくなりつつあるのです。自分の持てる能力を、驚くほど退化させているのです。
その結果はどうなのか? 簡単に騙され、簡単に怒りを爆発させ(先日の敗戦の時のブラジル戦のように)、そこにつけこまれてまた簡単に洗脳され、ということを繰り返しているだけではないでしょうか。
いたずらに難解であることと、そうではない「わかりにくさ」とは、まったく別物です。文学に正面から向き合い続けていれば、その違いはすぐにわかるようになります。つまり、簡単には騙されなくなります。
作品と読者がそれぞれ歩み寄る場所が、文学空間です。書き手として、私も歩み続けるので、読者もこちらへ歩くという労力をさいてくださればと願っています。
次回は、文学にかかるもう一つのプレッシャーについて考えてみます。アップロードがいつになるかは、ワールドカップ次第です。
21世紀に入ったころから、文学にはいくつかのプレッシャーがかかるようになっています。その一つは、「わかりやすくしろ」「読みやすくしろ」。
いたずらに難解だったり、これがわかるわれわれ、みたいな特権意識を持つ読者のための作品であったりすることには、私もうんざりです。けれど、読み手のほうは歩み寄ろうともせず、「自分たちにわかるように書いてくれ」という傾向には、唖然とするほかありません。基本的に文学とは、いや文学に限りません、芸術作品というのは、わからないから作る(書く、演じる)のであり、わからないから読む(見る、聴く、触る)のです。わかっていることを確認したり、自分の常識を疑わずに、自分に合わせて書かれた作品で納得するのであれば、それは引き籠もりです。スペインを旅行したいけれど、あの国のことはわからないから、スペインのほうからこっちに来てくれ、というようなものです。それが無理なので、国内のスペイン村へ行って、「自分はスペインがわかった」と思い、「スペイン行ってきたよ、よかったよ」と吹聴するようなものです。あるいは、隣駅まで歩いていくのがしんどいから、車で迎えに来てくれ、あるいは籠でも用意してくれ、と要求しているうちに、足が萎えてしまうようなものです。サッカーで言えば、俺はディフェンスもしないし、スペースにも走らないからな、俺に完璧なシュートを撃てるやさしいパスを出してくれ、と要求しているようなものです。こんな選手たちのいるチームはどうなるでしょうか?
もちろん、わかりやすくできた読み物も必要です。それぞれの役割があります。文学は、書き手にも読み手にも考えさせることが役割です。文学が提出するのは、言葉にならないある感覚や空気や感触です。それを感じてから、考えるのです。
文学作品を読むのは、一筋縄ではいきません。労力のかかる作業です。でも、その労力こそが、文学から得られる果実なのです。文学とは経験です。経験値をあげるトレーニングにして、出来事なのです。
しかし、世は、「ひとことで言うとどういうことなのか?」という要求ばかりを苛烈に突きつけます。政治も、メディアも、小説も、音楽も、演劇も、美術も。人々は、140字以内で、あっという間に飲み込める言葉しか、受け付けられなくなりつつあるのです。自分の持てる能力を、驚くほど退化させているのです。
その結果はどうなのか? 簡単に騙され、簡単に怒りを爆発させ(先日の敗戦の時のブラジル戦のように)、そこにつけこまれてまた簡単に洗脳され、ということを繰り返しているだけではないでしょうか。
いたずらに難解であることと、そうではない「わかりにくさ」とは、まったく別物です。文学に正面から向き合い続けていれば、その違いはすぐにわかるようになります。つまり、簡単には騙されなくなります。
作品と読者がそれぞれ歩み寄る場所が、文学空間です。書き手として、私も歩み続けるので、読者もこちらへ歩くという労力をさいてくださればと願っています。
次回は、文学にかかるもう一つのプレッシャーについて考えてみます。アップロードがいつになるかは、ワールドカップ次第です。
by hoshinotjp
| 2010-07-05 23:19
| 文学