2010年11月4日(木)

 村上龍氏が電子出版社を立ち上げたことについて、他の人はどう思うか知らないが、メディアとしての作家ということに極めて自覚的である村上氏の才覚が、この転換期を間違いなく捉えたと感じた。以下、それほど電子メディアに詳しくはない私が、今日考えたこと。
 たまたま今日は坂本龍一さんのサンフランシスコ・ライブのUstream中継を昼に見て(というより聴いて)、深い感銘を受け、この現実の意味を考えたのだった。あのクオリティの高いライブ中継が実現したのは、坂本龍一さんという存在の、蓄積された経験や人脈、ノウハウと、メディアについての知識・関心と、自身がメディアとして機能するだけの知名度があってこそではあるだろう。ただ、このノウハウが確立されれば、誰でもが費用をかけずにクオリティの高い中継をすることができる、ということを意味している。
 電子書籍が向かう地点も、そこだと思う。誰もが自分の作品を自分で出版できること。むろん、それがいわゆるプロの作家でなくても構わない。誰もが、というのはその点を含むことが重要である。
 私も、以前、仲俣暁生さんから、ごく素朴だが自分で電子書籍の形態にできる方法をちらりと伺ったとき、まずはエッセイでもまとめてこっそり出版してみようか、だとか、Plantedで連載していた連作を図版とともに作ったら楽しいだろうな、だとか、とりとめもなく夢想した。自分の作品だけでなく、あの人の文章が本になればいいなとか、あれこれ自分で作れる、ということの楽しさを、このときにほんのりと味わってみた。
 だから、村上氏の試みを知って、そうだよな、ここまで作家がやっていいんだよな、というより、やるべきなんだよな、と思った。電子書籍の究極が、個々人による出版であるならば、その道筋を作るのが既存の大企業であるのはそぐわないのだ。個々人の意見と試行錯誤の中でできあがっていくのがふさわしい。
 では、これまでの自費出版とか、ブログやホームページで作品を掲載するのと、何が違うのか?
 流通の権限を誰が持っているか、が違う。取次と結びついた出版社の存在とは、端的に流通を握る者、であった。作品を本にしてくれるかどうか、よりも(自費出版できるのだから)、それを全国の売り場で売ってくれるかどうか、が権限の源であった。
 電子出版は、その権限をかなりの部分、個人に返す。だから、発信することに意味ができてくるのだ。作っては見たけれど人の目に触れない、という状態から、もう少し人の目に触れる可能性ができてくる。流通の独占を骨抜きにしてしまったことが、画期的だと思うのだ。
 たくさんの作品が電子書籍化すると、今度はその情報整理が必要になってくる。リアル書店と違って、物がそこにあるわけではないので、情報の中に埋もれてしまうと見えにくくなる。そこで、情報を握って整理しそれを示す力がある者が、一番の権力を持つことになる。流通の権力から、情報の権力へ。その権力を握ろうとしたのが、アマゾンでありグーグルだった。けれども、ツイッター時代に入って、情報の流れを特定の権力者がコントロールするのが、難しくなっている。つまり、ツイッター的な情報の流通と、Ustreamや電子出版が結びつけば、作品を発信する権利を、特定の組織や業界が独占することは不可能になるのだ。
 誰もが発信し、誰の発信もが多数に認知される可能性がある、ということは、機会の平等につながる。ただ、それはポピュリズムを待望するような空気の中では、全体主義的な熱狂をとてつもないスピードで煽る役割も果たす。
 だから私は、希望と恐怖を両方感じている。加えて、紙の本で育った私は、これからいくら電子書籍も利用するようにはなっても、紙で本を読むことの楽さ楽しさから離れることはできないだろう。
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by hoshinotjp | 2010-11-04 23:29 | 文学