2011年 03月 01日
2011年3月1日(火) |
作家、学者、評論家、ジャーナリストといった言論人がメジャーになったときに陥る罠がある。
言論人がメジャーになるということは、その発言を多くの人が注視していて一定の影響を受けるということであり、いわば、一人の人物が一個のメディアとなることを意味する。そして現在ではインターネットやデジタル技術を使えば、文字通り一個人がメディアとなれるわけだから、メジャーな位置にいる言論人は、小さなマスメディアである。
誰もが個人としてそのままメディアになれる時代であるとはいえ、メジャーな言論人と、無名の一般人ではその規模が違う。メジャーな言論人は、その発言力において「マス」メディアであり、ちょっとした権力を手にしたと言える。そして、その権力性が、罠なのである。
多くの言論人は、自身が言論活動を始めた無名な時代には、その発言が強いマイナー性を帯びていたはずだ。人の目に触れない現実や情報や考え方を、何とか人の目に触れさせようともがいただろう。無力だからこそ、言葉にしようとしたのだろう。
罠とは、メジャーになって、自分の発言に耳を傾ける人が増えたにもかかわらず、マイナー意識をそのまま持って発言するケースである。マイナー意識にはどうしても、被害者意識に起因する攻撃性が含まれることが避けられない。顧みられないマイナーな立場の者がその存在を主張するには、ある種暴力的な力を借りないと、アピールできないからだ。その力を借りないと、依然として無視され存在はないままだからだ。だから私は、マイナーな言論に含まれるある種の攻撃性は、過剰にならない限り、やむをえないと感じている。
だが、メジャーな位置を確保した言論人が、依然として過剰なマイナー意識にかられて、攻撃性を含んだ言葉を繰り出してたら、どうなるか? その人にはすでに、個人メディアとして発言力があり、権力がある。その人の攻撃性には、言論に耳をかたむける者を煽動するいかがわしさが生じるだけでなく、弱者を抑圧する結果になることもある。だが、自分がマイナーの側にいるという意識をいまだに持っているものだから、自分の言論の権力と抑圧性に気づかない。本人は、かつてと変わらない姿勢を続けているつもりなのに、外から見ると、「あの人は変わった。偉くなったら抑圧的になった」と映ったりする。
さらに、言論業界の「業界人」の一員に迎えられることによって、それまで自分がその立場にいたはずのマイナーな人々から離脱してしまうケースもある。自分のメジャー性を確保し、さらにそれを拡大することが目的となってしまい、当初の、人の目に触れない現実や言葉を伝えようという目的と、入れ替ってしまう。「状況を変えるために発言する」が、「力を得ることが変えることだ」となり、得た力を失わないことにばかりかまけてしまう。その結果言論は、自分のメジャー性を見せつけ、権力を維持することに使われる。当初の意志をすっかり裏切ってしまうのである。
こうなると、その言論がどれほど過激で影響力を持っていても、それは現状を維持することにしか加担しなくなる。言葉の見せかけはマイナーなようでいても、作りだす文脈がメジャーだからだ。言っている内容は悪くないのに、どうもあの人は信用できない、という感じを抱いたりすることがあるのも、そういうことだ。言論が本当にメジャーの暴力を打ち破り、マイナーの存在を肯定させられるようになるのは、言葉面ではなく、文脈と心根の問題なのだ。
言論の業界にいると、そんな人をいろいろと見ることになる。それはそれで悲しいことだ。こないだの東京マラソンに喩えるなら、才能はあるのに「のうのうと飯を食っている」実業団のランナーを見るような気持ちかもしれない。言論人は、川内選手のようであり続けなければいけない。
言論人がメジャーになるということは、その発言を多くの人が注視していて一定の影響を受けるということであり、いわば、一人の人物が一個のメディアとなることを意味する。そして現在ではインターネットやデジタル技術を使えば、文字通り一個人がメディアとなれるわけだから、メジャーな位置にいる言論人は、小さなマスメディアである。
誰もが個人としてそのままメディアになれる時代であるとはいえ、メジャーな言論人と、無名の一般人ではその規模が違う。メジャーな言論人は、その発言力において「マス」メディアであり、ちょっとした権力を手にしたと言える。そして、その権力性が、罠なのである。
多くの言論人は、自身が言論活動を始めた無名な時代には、その発言が強いマイナー性を帯びていたはずだ。人の目に触れない現実や情報や考え方を、何とか人の目に触れさせようともがいただろう。無力だからこそ、言葉にしようとしたのだろう。
罠とは、メジャーになって、自分の発言に耳を傾ける人が増えたにもかかわらず、マイナー意識をそのまま持って発言するケースである。マイナー意識にはどうしても、被害者意識に起因する攻撃性が含まれることが避けられない。顧みられないマイナーな立場の者がその存在を主張するには、ある種暴力的な力を借りないと、アピールできないからだ。その力を借りないと、依然として無視され存在はないままだからだ。だから私は、マイナーな言論に含まれるある種の攻撃性は、過剰にならない限り、やむをえないと感じている。
だが、メジャーな位置を確保した言論人が、依然として過剰なマイナー意識にかられて、攻撃性を含んだ言葉を繰り出してたら、どうなるか? その人にはすでに、個人メディアとして発言力があり、権力がある。その人の攻撃性には、言論に耳をかたむける者を煽動するいかがわしさが生じるだけでなく、弱者を抑圧する結果になることもある。だが、自分がマイナーの側にいるという意識をいまだに持っているものだから、自分の言論の権力と抑圧性に気づかない。本人は、かつてと変わらない姿勢を続けているつもりなのに、外から見ると、「あの人は変わった。偉くなったら抑圧的になった」と映ったりする。
さらに、言論業界の「業界人」の一員に迎えられることによって、それまで自分がその立場にいたはずのマイナーな人々から離脱してしまうケースもある。自分のメジャー性を確保し、さらにそれを拡大することが目的となってしまい、当初の、人の目に触れない現実や言葉を伝えようという目的と、入れ替ってしまう。「状況を変えるために発言する」が、「力を得ることが変えることだ」となり、得た力を失わないことにばかりかまけてしまう。その結果言論は、自分のメジャー性を見せつけ、権力を維持することに使われる。当初の意志をすっかり裏切ってしまうのである。
こうなると、その言論がどれほど過激で影響力を持っていても、それは現状を維持することにしか加担しなくなる。言葉の見せかけはマイナーなようでいても、作りだす文脈がメジャーだからだ。言っている内容は悪くないのに、どうもあの人は信用できない、という感じを抱いたりすることがあるのも、そういうことだ。言論が本当にメジャーの暴力を打ち破り、マイナーの存在を肯定させられるようになるのは、言葉面ではなく、文脈と心根の問題なのだ。
言論の業界にいると、そんな人をいろいろと見ることになる。それはそれで悲しいことだ。こないだの東京マラソンに喩えるなら、才能はあるのに「のうのうと飯を食っている」実業団のランナーを見るような気持ちかもしれない。言論人は、川内選手のようであり続けなければいけない。
by hoshinotjp
| 2011-03-01 11:38
| 社会