2007年 03月 30日
2007年3月30日(金) |
バブル崩壊期、野村證券が大手企業に損失補填を行っていたことが明らかになったとき、ちまたの怒りは「なぜ大企業ばかり優遇される」というものだった。ただ貯金をしているなんてバカだ、運用しない人間は愚かだ、という風潮に乗り、周囲の友人知人も私に財テクを説いてきたバブル経済期を、苦々しい気持ちで生きていた私は、損失補填発覚時の世間の反応に非常に違和感を覚えた。バブルを支えてきた自分たちの責任は吹き飛んで、被害者意識だけが前面に出ていたからだ。
つまるところ、他人がやっているから自分もやらないと損、という考え方がすべてなのだ。あの当時から今に至るまで、日本社会のこのメンタリティは変わっていない。納豆ダイエットで納豆を買いに走ったあとで番組捏造が発覚すると被害者の顔をして苦情を言う現象から、次々と核武装する世界で日本も核を持たないでいると損だ、遅れてしまう、という考え方に至るまで。東京都のオリンピック招致も同様である。オリンピックが見たいという欲望だけで、どう考えても失敗する招致に賛成し(北京の次の次に東京に来るわけがない)、現実に招致に失敗したら、自分が賛成したことなど棚に上げ、莫大な税金が投入されたことに腹を立てることになるだろう。
このようなメンタリティは、より大きな権力を結局は利することになる。イギリスがインドを宗教的に分割統治して、内部に対立を作り出すことで、植民地統治をやりやすくしたように。納豆の問題では、現政権で最も強権主義の危険人物である菅総務相が、放送について介入し放送局を罰するという前例を作るための、格好の口実を与えてしまった。
そのような環境の中で重要なのは、「自分はしない」あるいは「自分はする」という態度そのものである。
せこい話で恐縮だが、私も自分の書いた小説をもっと広く読んでほしい気持ちはある。そのためには知名度のある文学賞がいただければ効果は絶大だし、戦略的に狙うべきだと親身にアドバイスしてくれる友人知人はたくさんいる。それはとてもありがたいことだったし、私もそれをかたくなには拒まないようにしてきた。たいていの小説家は、同じような気持ちだろう。
しかし、これ以上、その戦略の遂行に熱を注いだら、本末が転倒してしまうという地点がある。そこを越えてまで、傾向と対策を練る気にはならない。もともとのモチベーションを損ねてしまったら、小説を書く意味がない。私はこの十年間、できることはすべて行ったので、次へ進むことを宣言したわけである。
私にとってもともとのモチベーションとは、社会で生きる上で必要な文学が消えていこうとしている中で、何とか文学を書こうと試みることである。だから、マイナーな存在として注目されないのはもとより承知のうえである。メジャーな賞を獲って少し注目されることも意味がないわけではないが、自分が文学だと思える作品をきちんと書いておくことのほうが本筋である。別に後世に残したいとか歴史が判断するなどと、未来に希望を託しているわけではない。先ほど述べたようなメンタリティの社会の中で、自分は必要だから文学を書く、という態度を維持したいだけである。それが自分個人を守るすべであり、ひいては取り込めない異物として、大きな権力に対しての歯止めとなりうるのである。
さまざまな処世術的手段を、功利的に使っていくのは大切なことだ。それによって発言力を増し、社会に影響を与えることも必要だろう。しかし、メジャーであることよりも、個々人が譲らない一線を示すことのほうが、今現在の社会ではより重要だと考えるのである。その積み重ねでしか、根本的な変化は期待できない。それが私の文学のスタンスであり、存在意義だと思っている。
つまるところ、他人がやっているから自分もやらないと損、という考え方がすべてなのだ。あの当時から今に至るまで、日本社会のこのメンタリティは変わっていない。納豆ダイエットで納豆を買いに走ったあとで番組捏造が発覚すると被害者の顔をして苦情を言う現象から、次々と核武装する世界で日本も核を持たないでいると損だ、遅れてしまう、という考え方に至るまで。東京都のオリンピック招致も同様である。オリンピックが見たいという欲望だけで、どう考えても失敗する招致に賛成し(北京の次の次に東京に来るわけがない)、現実に招致に失敗したら、自分が賛成したことなど棚に上げ、莫大な税金が投入されたことに腹を立てることになるだろう。
このようなメンタリティは、より大きな権力を結局は利することになる。イギリスがインドを宗教的に分割統治して、内部に対立を作り出すことで、植民地統治をやりやすくしたように。納豆の問題では、現政権で最も強権主義の危険人物である菅総務相が、放送について介入し放送局を罰するという前例を作るための、格好の口実を与えてしまった。
そのような環境の中で重要なのは、「自分はしない」あるいは「自分はする」という態度そのものである。
せこい話で恐縮だが、私も自分の書いた小説をもっと広く読んでほしい気持ちはある。そのためには知名度のある文学賞がいただければ効果は絶大だし、戦略的に狙うべきだと親身にアドバイスしてくれる友人知人はたくさんいる。それはとてもありがたいことだったし、私もそれをかたくなには拒まないようにしてきた。たいていの小説家は、同じような気持ちだろう。
しかし、これ以上、その戦略の遂行に熱を注いだら、本末が転倒してしまうという地点がある。そこを越えてまで、傾向と対策を練る気にはならない。もともとのモチベーションを損ねてしまったら、小説を書く意味がない。私はこの十年間、できることはすべて行ったので、次へ進むことを宣言したわけである。
私にとってもともとのモチベーションとは、社会で生きる上で必要な文学が消えていこうとしている中で、何とか文学を書こうと試みることである。だから、マイナーな存在として注目されないのはもとより承知のうえである。メジャーな賞を獲って少し注目されることも意味がないわけではないが、自分が文学だと思える作品をきちんと書いておくことのほうが本筋である。別に後世に残したいとか歴史が判断するなどと、未来に希望を託しているわけではない。先ほど述べたようなメンタリティの社会の中で、自分は必要だから文学を書く、という態度を維持したいだけである。それが自分個人を守るすべであり、ひいては取り込めない異物として、大きな権力に対しての歯止めとなりうるのである。
さまざまな処世術的手段を、功利的に使っていくのは大切なことだ。それによって発言力を増し、社会に影響を与えることも必要だろう。しかし、メジャーであることよりも、個々人が譲らない一線を示すことのほうが、今現在の社会ではより重要だと考えるのである。その積み重ねでしか、根本的な変化は期待できない。それが私の文学のスタンスであり、存在意義だと思っている。
by hoshinotjp
| 2007-03-30 19:29
| 文学

