2010年 07月 08日 ( 1 )

『俺俺』 収録外のまえがき その4「結末について」

 この作品の結末について書くわけではありません。ネタバレの心配はございません。

 ここ何年か、文学にかかるようになってきたプレッシャーのひとつに、「前向きな結末を」というのがあります。作品の締めくくりは前向きに明るい印象にしてほしい、ということです。
 私にはこれがまったく理解できません。なぜなら、日常やこの社会からの重圧から解放されたくて文学作品を読む、といった経験がないからです。私にとって、文学作品を読むことは、日常や社会と格闘したり何とか屈せずに折り合いをつけるための知恵でありトレーニングなので、そこから解放されたり癒されたりするためではありませんでした。
 もちろん、そのような目的にかなう芸術作品が存在するのは悪いことではないと思います。時にはそれも必要だと思います。私もそれを必要としています。
 けれど、重要なのは、目を逸らさない、真正面から受け止めることです。そしてその力になるのが、文学作品の役割だと私は思っています。
 実際、私が読んできた小説は、大半が「前向きな結末」などではありません。ドストエフスキーもフォークナーもカフカもウルフも、ガルシア=マルケスもプイグもルルフォも、たいていは重く苦しく暗い終わり方をしています。ただ、ネガティブとも言えません。そう見えても、じつはとてつもない爆発力を持っています。
 要するに、結末がネガティブかポジティブかなんて、どうでもいいのです。その小説のパワーによって、自分の中の、自動化したものの見え方・感じ方が動かされることが重要なのです。
 これだけ希望や明るい見通しのない社会に生きていると、「前向きな結末」を欲する気持ちはわからないではありません。でも、それは癒しを求めるこの十数年の風潮と軌を一にしていると思います。依存症が蔓延する傾向と同根です。なぜ、希望や明るい見通しが消えていく一方なのか、その原因からどこかで目を逸らしてしまっているからではないでしょうか。せめて、文学の場では、それを見極める努力を、苦しくてもすべきでないのか。
 文学は、嫌なものを隠したり、口当たりよく変えたりする媒体ではありません。見えないもの、聞こえないもの、感じられないものを、見えるように聞こえるように感じられるようにする媒体です。
 もし文学までもが、結末のカタルシスを要求する風潮になびいてしまったら、ただその場の心地よい忘却を与えるだけの薬物に成り下がってしまいます。その結果は、私たちがさらに強い刺激物を求めるようになる、という中毒症状の深まりしかありません。現在のネガティブな社会は、依存症社会の結果だとも言えます。
『俺俺』は陰惨なテーマを扱っていますが、ことさら陰惨に書いたつもりはありません。結末も、見かけはどうあれ、ネガティブともポジティブとも言えないものです。ネガティブ/ポジティブという分け方自体が、何かによる洗脳であり、依存へ追い込む力である、ということを、作品を書きながら考えました。
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by hoshinotjp | 2010-07-08 23:13 | 文学