サッカーという競技のよい点の一つは、誰でもどこでもできるということである。11人制のサッカーに限らず、フットサル、適当な人数での草サッカー、ブラインド・サッカー(盲人のサッカー)、聾唖者のサッカー、車椅子のサッカー、ボールのないエア・サッカー……。
私がこのところ肩入れしているのが、ホームレス・サッカー。路上生活者の活動で、ビッグイシュー・ジャパンが支えている。じつはホームレスサッカーにはワールドカップまである。しかも毎年。2008年の南アフリカ大会の模様はドキュメンタリー映画にもなって、日本でも今年、公開された。
日本からも過去2回、代表が出場している。その名も、「野武士ジャパン」。侍ジャパンなどより強そうではないか。最初が2004年のイエーテボリ大会(スウェーデン)、2回目が去年のミラノ大会。ミラノ大会の野武士の姿は、フジテレビの「NONFIX」で放映された。毎年は出場できないのは資金の問題である。
そして現在、ホームレス・サッカーのプレーヤーたちは、来年秋のパリ大会目指して、練習を積んでいる。コーチは、サッカーを本格的にやっていた若い衆がボランティアで務め、ただいまディフェンスの猛特訓中である。ここふた月ほどで劇的に上達したと思ったのだが、今日はCITIグループのフットサル大会に参加して、まだまだであることを思い知らされた。
私は夏にたまたま参加してから、荷担するようになった。最初は応援しているという気持ちから、サポートのつもりで顔を出したのだが、最近はあたかも自分がフットサルをしたいだけのような感じになっていて、どう関わったらよいのか思案していた。
で、思案した結果、このままでいいや、と結論した。
ホームレス・サッカーも、「路上文学賞」と同じじゃないかと思ったのである。要は、ピッチという同じ地平の上で、誰であろうが構わずサッカーを楽しんでいることが肝心なのだ、と。ピッチの上に立つ者たちの間に線引きはなく、ただサッカーをしたい人たちがいるだけ。
そのような意識を持つことは、なかなか難しい。でも回を重ねて一緒にプレーしていると、いつの間にか、そんな心境になるのだ。野武士の連中が上達して嬉しいと私が感じるのは、同じサッカー仲間が上達しているからだ。
さらに私が未来のビジョンとして妄想するのは、そのような線引きのないサッカーが、路上のあちこちで展開されている図である。まるでホコ天のように、ある特定の曜日の特定の時間に路上が開放され、サッカーをしたい者が集まって、そこここでサッカーをしているのだ。そんなストリート・サッカーが日常の光景になればいい。
路上の開放は、今の私たちを縛っている目に見えない網から解放されることである。路上が公共の名のもとに自由に使えない社会は、いつも何者かの目に怯えて生きる社会である。日本は今、業界だったり世間だったり学校だったり、それぞれのコミュニティ内部の目に怯えてみんな生きている。路上を開放するということは、その視線の縛りを無効にすることだ。
そんな気持ちと考えから、「フットボール・ゲリラ」という短編小説を書いた。来週発売予定の新しい文芸誌「In The City」(ビームス刊)に掲載されています。
ホームレス・サッカーや野武士ジャパンに関心を持った方は、こちらのブログから担当者にご連絡ください。
私がこのところ肩入れしているのが、ホームレス・サッカー。路上生活者の活動で、ビッグイシュー・ジャパンが支えている。じつはホームレスサッカーにはワールドカップまである。しかも毎年。2008年の南アフリカ大会の模様はドキュメンタリー映画にもなって、日本でも今年、公開された。
日本からも過去2回、代表が出場している。その名も、「野武士ジャパン」。侍ジャパンなどより強そうではないか。最初が2004年のイエーテボリ大会(スウェーデン)、2回目が去年のミラノ大会。ミラノ大会の野武士の姿は、フジテレビの「NONFIX」で放映された。毎年は出場できないのは資金の問題である。
そして現在、ホームレス・サッカーのプレーヤーたちは、来年秋のパリ大会目指して、練習を積んでいる。コーチは、サッカーを本格的にやっていた若い衆がボランティアで務め、ただいまディフェンスの猛特訓中である。ここふた月ほどで劇的に上達したと思ったのだが、今日はCITIグループのフットサル大会に参加して、まだまだであることを思い知らされた。
私は夏にたまたま参加してから、荷担するようになった。最初は応援しているという気持ちから、サポートのつもりで顔を出したのだが、最近はあたかも自分がフットサルをしたいだけのような感じになっていて、どう関わったらよいのか思案していた。
で、思案した結果、このままでいいや、と結論した。
ホームレス・サッカーも、「路上文学賞」と同じじゃないかと思ったのである。要は、ピッチという同じ地平の上で、誰であろうが構わずサッカーを楽しんでいることが肝心なのだ、と。ピッチの上に立つ者たちの間に線引きはなく、ただサッカーをしたい人たちがいるだけ。
そのような意識を持つことは、なかなか難しい。でも回を重ねて一緒にプレーしていると、いつの間にか、そんな心境になるのだ。野武士の連中が上達して嬉しいと私が感じるのは、同じサッカー仲間が上達しているからだ。
さらに私が未来のビジョンとして妄想するのは、そのような線引きのないサッカーが、路上のあちこちで展開されている図である。まるでホコ天のように、ある特定の曜日の特定の時間に路上が開放され、サッカーをしたい者が集まって、そこここでサッカーをしているのだ。そんなストリート・サッカーが日常の光景になればいい。
路上の開放は、今の私たちを縛っている目に見えない網から解放されることである。路上が公共の名のもとに自由に使えない社会は、いつも何者かの目に怯えて生きる社会である。日本は今、業界だったり世間だったり学校だったり、それぞれのコミュニティ内部の目に怯えてみんな生きている。路上を開放するということは、その視線の縛りを無効にすることだ。
そんな気持ちと考えから、「フットボール・ゲリラ」という短編小説を書いた。来週発売予定の新しい文芸誌「In The City」(ビームス刊)に掲載されています。
ホームレス・サッカーや野武士ジャパンに関心を持った方は、こちらのブログから担当者にご連絡ください。
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by hoshinotjp
| 2010-10-24 18:33
| サッカー・スポーツ